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255 機能面から見た言葉

わかりにくい文章の弊害

 きょうは、ちょっとあやふやな話をする。ただし、実践の上で積み上げたことでもあるので、それほどデタラメというわけではない。予めお断りしておくのだが、囲碁将棋には詳しくない(お笑いコンビの「囲碁将棋」は知っているけど)。父は囲碁が好きだったが、入門編で私は諦めている。友人で将棋好きは多かったので見よう見まねでやってみたことはあるものの、のめり込むことなく今に至っている。ドラマ「季節のない街」でいわば長屋のご隠居的なたんばさん(ベンガル)が将棋を指しながら悩み相談に乗るシーンがあったので、思い出した話だ。
 他人の文章を校正しながら、「どうしてこんな風にわかりにくくなってしまうのか」と悩んでいた時期があった。まだ20代でようやく出版の仕事に飛び込んで、それなりにやれる自信をつけはじめた頃のことだ。本来、校正は、校正専門家に依頼するのがスジだ。ただ、その出版社は弱小だったし、本業が業界紙だったこともあって、内部で校正するのを当然と考えていた。校正部も校閲部もないのに。結果、編集者、記者たちによって、複数の目で見ることでなんとかミスを減らしていた。書籍はOBに助っ人を頼み、役員たちも参加して校正していた。
 あるとき、致命的なミスの起きやすい文章にありがちな傾向を発見した。とても単純なことで、「よくわからない原稿」は、校正している者もよくわからないまま原稿と照らして校正するため、原稿のままには印刷できるものの、原稿にミスがあった場合はスルーされてしまう。
 一方、わかりやすい文章は校正する者たちも好んで読むので「あれ、これおかしくない?」といった話が出やすく、ミスを発見しやすい。
 これを発見(?)したときから、私はほかの人たちに「わかりやすい原稿」を任せ、私はもっぱら面倒臭くてわかりにくい文章に取り組むようにして、ミスを減らすことに成功した。わかりにくい文章は誰か専任を立てることで、かなり精度を高めることができる。
 わかりにくい原稿はわかりにくいゲラとなり、わかりにくいまま印刷されていく。そして読者によってはじめて「これはおかしい」と発見されるのだ。

わかりやすさと言葉の機能

 冒頭で囲碁将棋の話をしたのだが、間違っているかもしれないけれど、どちらにも盤面で「効いている」一手がある。言葉にもそうした機能があって、そこに置いた言葉によって、かなり先まで効果が発揮されていることがある。その効果の発揮の仕方によって、わかりやすくなる。あるいは、わかりにくくなる。
 これは内容の難易度とは直接は関係しない。言葉の配置の問題だ。
「その言葉は機能しているか?」「その段落は機能しているか?」と自分に問うことで、わかりにくさの原因を取り除き、わかりやすくすることが、ある程度は可能になる。雑誌原稿の場合、「お任せします」と筆者に言われてしまうこともあって、内容しだいで文字数を調整させてもらうことがある。この時に、どこを削れるかを見つけるときも、機能から探すことはひとつの糸口になる。「この段落は結局、機能していない」とごっそり削れることがある。もっとも、いい加減な原稿のときは、全部、削れてしまう恐れもあるので要注意だけど。
 編集で手を入れた場合は著者に必ず確認してもらうことになり、こっちが削った文章を復活してくることもあるとはいえ。著者のお気に入りの部分は、案外、機能していないことがあるのだ。
 ここで私は「機能」と呼んでいるけれど、それを理論的に考えたわけではないから、正確には機能と呼ぶのはふさわしくないかもしれない。少なくとも、同じ文章の中で、うまく伝わっている言葉がある一方、伝わらない言葉もあるのは確かだ。そこに気付いたときに工夫をすることができれば、恐らく、わかりやすい文章になっていくのではないだろうか。

長い道のり。あの向こうまで描くつもり。


 
 
 
 

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