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何か"ありがたい話"してみてよ

今回は、私が職場で経験したことの振り返りと、そこからの学びを執筆します。

ありがたい話がしたい

最近、私は僧侶にならせていただきました。
僧侶になった後、当然と言えば当然ですが、職場の先輩達から「もう説法とかできるの!?」「何かありがたい話してみて〜!」と、そこそこ無茶振りをいただきます笑

さて、困ったものです。

私はまだまだお寺のことも仏教のことも勉強半ば。
本当は、「それっぽい!」とか「流石!」とか言っていただけるように、皆さんの期待に応えたいのです。

しかし、お恥ずかしながら、そこには何も話せない自分がいることに気づかせていただきました。

でもでもよく考えたら、「何か面白い話してよ!」くらい何を話せばいいのか、難しい空気感にも感じました笑

どう答えればよかったのか?


今度は、別の先輩社員と話をしており、ちょっとした人生相談的な話題に。

「最近、仕事をしていてもあまり楽しく思えない。何かアドバイスがあれば教えてほしい。」

そんな相談を受けました。
ここでもコレといった答えがうまく返せず、ちょっと悔しい思いをしました。

真剣な相談というよりは、雑談レベルではありましたが、ここでサラッとアドバイスが出せることが大事だと思いますし、私としてはカッコいいと考えます。

今ならこう答える

それから何日か、あの時「どんなアドバイスをすれば自分は納得できたのか?」とモヤモヤした日々を送りました。

そこで目にしたのが、安永雄彦さんのアンサーでした。

ただ、「自分が頑張れなくても、頑張っても、どちらでもいいんです」という“世界観”を知っておくだけで、あるとき、それがコツンと自分に跳ね返ってくることがあるんです。

「頑張れてない自分」のも「頑張っている自分」も、どちらも「自分」であることには変わりませんし、仕事を「楽しめていない自分」も「楽しんでいる自分」も同じ「自分」です。

私は、仕事にせよ何にせよ上手くいっている時は、自信に満ち溢れております。(何ならすぐ調子に乗ってしまいますが笑)
一方で、失敗したり上手くいかないことがあれば、悲劇のヒロインのように落ち込んでしまいます。

このように、(私を含め)人間は「イイ自分」と「ダメな自分」を分けて考えずにはいられないものなのです。

しかし、仏教にはモノゴトを分けて考えない「無分別(むふんべつ)」という教えがあります。
我々人間の「分別(ふんべつ)」を超えた仏さまのようなモノゴトの見方や言葉、考え方から学ぶことがあり、救われることがあるのだと思います。

どんな時でも自分に驕らず・腐らずな人間でありたいと思うものであります。

今ならこのようにお答えさせていただこうと、自分で振り返ってみました。
今後も、こういったお話や相談の機会で、すぐに自分の回答をできるように日々勉強を怠らないようにいたします!

合掌

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