対話にならない一方通行に茫然とする。

批判と蔑みは違う。これは子供たちとも一緒に考えていることだ。怒りと罵倒に任せて「正義」を掲げても本意は伝わらない。もしゴールが対話であるならばだ。打ち負かして自己憐憫ワールドに浸りたいのであれば話は別口。

批判している気になって、自分のことを棚に上げるようだと困る。言葉は薬であり矢でもあって。放った言葉が時間をかけて自分へ帰ってくることを忘れてはならない。怪物と闘っている最中に自分が怪物になっているかも知れない。分かってくれる人々だけでいいというのであればその集団は"認識共同体"であって、もし外に発信や意見を述べる場合ならなお対話しなければいけないのではなかろうか。

アメリカの政治学者P. M. ハースは、専門家集団の国際ネットワークの果たす役割を指摘し、これを“認識共同体(Epistemic Community)”と名づけました。“認識共同体”とは、国などの枠を越えて、専門的な知識をもっている人たちが人類の福祉に貢献するという認識のもと、国際ネットワークを通して考えを出し合い、あるべき解決策を提言する集団のことをいいます。

自己完結で終えてはいけない、無意識に根付いているものを変えたいと願っているならなおのこと。理解の根を広げたいのに誰かを叩きのめして言葉炙りにしている姿を子供たちに見せたいのだろうか?枢木スザクの言葉を用いるなら、

「間違った方法で手に入れた結果に、価値はないと思うから。」



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