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「時々、私は考える」観たーー⤵︎

21時34分 食後。

昨日、新宿シネマカリテにて前から目をつけていた「時々、私は考える」(レイチェル・ランバート)を観た。鑑賞後まず思ったのは、

思ってたのとちがーうッッ!

タイトルとポスターヴィジュアルから想像していた所謂 " アメリ的 "なストーリーは大きく外れはしなかったものの、社会に馴染めない性質の人間を題材にするには物語の強度が足りない気がした、、
冒頭は他人と現実で手を取り合えない分、自分の空想の世界に没していく主人公の説明をしなきゃいけないんだけど、
森の中に横たわる姿
海岸、流木で作ったテント
クレーン、地下室
どれも画としては映えているけどなんだか触れたらぷしゅーっと萎んでしまうような脆弱さを感じた。この前観たシャーリーはその点の説得力がある。想起するイメージにはその人の体験と言葉があるはずだから。
想像⇆象徴


こういうのを比べるのは倫理的によくないかもしれないけど、自分がこれまで出会ってきた、心の形が定まらず苦しんでる人達は本当に驚くような言葉と世界を持っていて、その代わりに"お約束"は守られない。怒りや悲しみを誘う言葉。1日の中で流れる時間のスピード。それらが目の前の世界に何をもたらすのかが分からないし、意味をもたらさない。使うべき地図や時計が異なるから。彼ら、彼女らの世界では雨が降っても地は固まらない。約束は果たされない。そういう人々の見栄えする箇所だけを抜き出してビジュアルとして楽しむのは命への冒涜だ。劇中で、男が映画を観る理由に「本質を汲み取ること」をあげるシーンがあったけど皮肉にも今作はまるでそれがなされてなかったと思う…!

あ〜、、楽しみにしてたから、、つまらないの一言を胸に閉まっておけば終わりなのにこういうこと書いてしまう自分が面倒くさい。。
自分やなヤツーゲェー

またね…

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