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「頑張れ」を徹底的に批判してみる

今日は「頑張れ」という言葉を徹底批判してみたいと思います。

世の中には「頑張れ」が溢れています。

一方で「頑張るな」という言葉をあまり聞きません。

 世の中には右折路と左折路、上り階段と下り階段は同じ数あり、バランスが取れているのに、「頑張れ」と「頑張るな」はどうもバランスが取れていません。

「頑張れ」は気楽な言葉です。寝ながらテレビでサッカー日本代表の試合を見ながら言えます。「久保、頑張れ」と。

そしてその久保選手が活躍すればなんだか自分の「頑張れ」のお陰のような気がして、気分が良くなります。

そして、実際に頑張ってもらうことで、自分が利益を得ようというパターンもあります。

おじさんたちが言います。若者たちにはもっと頑張ってもらいたい、、、と。

ぼくもおじさんですが、この「頑張れ」には、自分たちがもっと楽がしたい、もっと豊かな社会を作ってもらって、自分達も豊かになりたいという願いが含まれていることを否定できません。

親が子供にいう「頑張れ」も、同じです。勉強を頑張って豊かになって自分の老後を支えて欲しい、、、そこまではなくても少なくとも人並みに働いて、親の脛を齧り続けるニートにはなって欲しくない、、、親として世間に恥ずかしいような子供であって欲しくない、、、などなど。

そもそも「頑張り」とはなんでしょう?

僕の考えでは、車のターボとか、ブーストとか、通常の状態より上の特別な状態だと考えます。

つまり一定期間は可能だが、続ければ問題が生じる状態だと言えます。

車がずっとターボを使って走ればエンジンに負担がかかって壊れるのと同じ理屈です。

「頑張れ」とは端的には「無理をしろ」といっているのとさほど変わらないのです。

もっといえば、今の、通常の状態の君を、私は認めない、もっと上の君を見せてくれと言うことです。

これはなかなか残酷な言葉です。

僕は「頑張れ」と言う言葉で思い出すのは「円谷、頑張れ、円谷、頑張れ」で自ら死を選んでしまわれた、マラソンの円谷選手のことです。

日本中の期待を背負わされた円谷選手の心の負担は如何ばかりであったでしょう。

そして何より悲しいのは、誰も円谷選手を傷つけようとか、追い詰めようなどとは思っておらず、日本中が無邪気に円谷選手の活躍を期待し、「円谷頑張れ、円谷頑張れ」と言い続けていたと言うことです。

そうです。そこには悪意は無かった。

「頑張れ」は、僕らが思うよりずっと凶暴な言葉なのかも知れません。

時々、我々は忘れてしまいますが「頑張れ」は命令形なのです。

自ら「頑張る」のではなく、「頑張れ」と命令しているのです。

「頑張れ」は相手に対する現状否定です。相手に変化を、成長を、進化を求める言葉です。

「頑張れ」と言うのは簡単ですが、ちょっとだけ立ち止まってほしいのです。

あなたの大切な人が、本当に欲しい言葉は「頑張れ」ではなく、「そのままで大丈夫だよ」という受け入れの言葉なのかも知れませんから。


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