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剥き出しで生きる(仮)2

大学生活初日。21歳の大学一年生が、都心にあるキャンパスを歩くと、緑の芝生も楽しそうに会話する男女の姿も皆無で、すれ違う学生は男ばかり。さすが理工学部と納得する。中学生の頃、朧ながら想像していたアメリカ映画や日本のトレンディドラマで描かれるキャンパスライフとはまったく異なる光景が広がっている。さほど高くはないビル、そしてキャンパスの真ん中には申し訳程度の広さの人工芝のテニスコートがあるだけだった。


教室内へ入ると、またも男ばかり。しかもどう見ても年下で若干ナードな雰囲気。初日の緊張もあったのだろう。皆、互いを牽制するような視線で、誰も一言も発しない。初めての講義は数学だった。担当教員は大学へ入学したからと言って勉強しないで良いということはない、と言い放ったあと、毎回の小テスト、数回の講義に一度のノート提出、学期末のテストの他にも定期的なテストを課すと告げた。3年間の浪人生活からやっとのことで開放され、とにかく身軽になり遊びたかった僕はその言葉を聞いて愕然とした。まわりの男子学生たちも、大学へ入れば遊べると思っていたに違いない。


初回の授業が終わると、僕は喫煙所へ駆け込んだ。ノストラダムスの大予言など信じてはいなかったが、その年の7月には人類が滅亡すると言われていた当時、大学内にはまだ至るところに喫煙所があり、学食にはビールが売られていた。大学へ入学しても、勉強しろと言うのかよ。ため息をつくようにタバコを一服していると、「隣に座っても良い?同じクラスだよね?」という声が聞こえた。「確か一緒だよね。どうぞ、どうぞ」。彼は、教室の中で一番目立っていた。服装が派手だったからだ。会社でも喫煙所でのコミュニケーションがあると聞くが、大学でも同じだった。同じクラスで、喫煙所に集まる連中とは徐々に話す機会が増えていった。ある日、その中のひとり、先程の服装が派手な全身をコムデギャルソンでかためた彼が「今度、みんなで飲み会をしよう」と提案する。皆が「いいね」と賛同すると、「いつにしようか」と話はとんとん拍子で決まっていった。


それから数日後、大学近くの居酒屋で同じクラスの野郎どもだけが集まり飲み会が行われた。初めは、出身地や年齢など自己紹介的なお決まりの会話が続く。酒が入り、場が多少なりとも和むと話題の中心はネットに関することばかりだった。2ちゃんねるがどうとかそんな話だ。僕はその手の話にはまったく興味を抱けなかったから、一人でビールとウーロンハイを飲み続け酔った。


黄金週間に入る頃には、すっかり大学生活にも慣れ、規則正しい生活を送ったおかげなのか、はたまた医者になるという呪縛から開放されたからなのか、もうひとりの自分の声は月に数回しか聞こえなくなっていく。連休が終わると、新入生や新入社員がなりやすいという5月病にもなることはなく、ますます体調は良い。その頃、僕はパニック発作が起きそうな予感がすれば、すぐに頓服薬を飲む。または風通しの良い涼しい場所で、常に持ち歩いていた水やポカリスエットを飲むことで発作を回避する術を心得ていた。体調が良く、彼女もいる。少しずつ高校生の頃の自分を取り戻しつつあった僕は、大学生ならばアルバイトをしようと思い立った。当時はまだフロムエーなどのアルバイト情報誌が書店に並んでいた。幼い頃からネットに慣れ親しんでいる世代は驚くかもしれないが、当時はアルバイト情報さえ書店で購入するか、新聞の広告で見るしかなかった。どちらにしろ、情報を得るには対価が必要だったのだ。


情報誌をめくっていると、「時給1100円」の文字に目が止まる。仕事内容は、新たに開設されるコールセンターでの受信業務と書かれている。しかも自宅から電車を乗り継いでも15分ほどの好立地。すぐに申込みをし、筆記試験とタイピングのテスト、そして面接を受けた。新たに開設されるから募集人員も多かったのだろう。あっさりと合格した。初めてのバイトがこんなにもすぐに決まるとは思いもしなかった。すでに時は世紀末。バブルがとうの昔に崩壊し、日本経済は大幅に縮み、大学生の就職率が下がり始めたころ。
約1週間ほどの研修期間が始まる。まわりを見渡すと同年代、もしくは少し下が多い。なんとなく馴染めそうだと感じると、安心感を得る。研修期間中、発作が起きることもなく、バイト仲間ともすぐに打ち解けた。最終日に、打ち上げと称し、みんなで飲み行くことになった。バイト仲間には、大学生もいれば、劇団員やミュージシャンの卵など多彩なバックボーンを持っている人が多かった。彼らと過ごすその時間は居心地が良かった。久しぶりに、自分の居場所を得たように感じる。


ノストラダムスの大予言が見事にハズレ、結果的に人類が滅亡しなかった7月、初めてのアルバイト代をもらった僕らコールセンターバイト仲間は5人ほどで飲みに行った。気の許せる仲間と飲むと、ついつい飲みすぎてしまう経験は、酒が飲める人なら誰でもあることだ。そのときの僕も仲間もだいぶ酔っていた。若く酔った男どもが考えることはただひとつ、女の子のことだけ。店内を見回すと、同世代の女子のグループを発見。これは!と思い、誰かが声をかけた。そのうちのひとりの女性と僕は関係を持った。もちろん、浪人生から付き合っていた彼女がいたのだが、「3年間も受験勉強をして苦しんだろ。これくらいのことは許されるよ」。そう誘惑という名のもう1人の自分がささやく。酒が入った状態で誘惑に勝てるほど僕は強くはない。ただし、シラフになってもその関係は続いた。彼女にもうひとりの女の子、薬は飲んでいるがたまにしか起こらない発作、すべてがまた高校生の頃のように良い方向へ回りだすと感じると、次第に自信のスイッチが再起動されたように感じた。まるで世の中は、自分を中心に回りだすかのようだった。いやいや、自分勝手で傲慢だった。


アルバイト仲間と飲むことが楽しく、大学へも当時はまだきちんと通っていた僕は、本命の彼女とのデートに遅れたり、ドタキャンをすることが増えていく。それでも彼女にはふられることはないだろうという自信があった。
大学入学決まった4月上旬、僕は生まれてはじめて自宅に彼女を招き、母親に紹介した。小学校の卒業アルバムを見ていたときだった。


「この卒業式のジャケットとパンツは、私も同じのだったよ。どこで買ったの?」


そのジャケットは紺色で、パンツはグレー。よくある組み合わせなのに、どうしてそれを聞いたのか不思議だった。


「確か、銀座の松屋のラルフ・ローレンで買ってもらったような気がする」


それより1年ほど前、8歳年下の弟が同じ服で同じ小学校の卒業式に出席したので、なぜか覚えていた。


「私もまったく同じ!」

他にも彼女とは幼いときに、親に連れて行かれた場所が一緒だったりと共通点が多かった。運命の赤い糸みたいなものを信じていたのだ。
ある日、有楽町マリオンで待ち合わせをした時のことだ。待ち合わせの時間に、2時間遅れた僕が姿を現すと、目に涙を浮かべた彼女は思いっきり顔面をビンタした。


「3年間、ずっと辛い受験勉強をして、ようやく大学へ入れたんだから、遊びたいのはわかるよ。でもさ、こんなにドタキャンしたり、2時間も待たせるなんて私のことどう思っているの?」


彼女は激怒した。言い訳をできるはずもなく、「当分、許さない」とものすごい剣幕で怒られた。


夏休みに入り、久々に家族で海外旅行へ行くこととなった。高校卒業記念に友だちと行ったハワイ旅行以来だった。彼女とのルールで、毎日連絡は欠かさなかった僕は海外からでもそうした。しかし、受話器の向こうの彼女の口調がよそよそしい。付き合って1年くらいすれば、相手の声のトーンでなんとなく気持ちを察することはできる。帰国し、すぐさま電話をかけると


「あなたが私とのデートをドタキャンしたときに、何をしてるか全部わかっているんだからね。だから、もうあなたとは付き合っていません」。


ハッキリと振られた。何も言い返すことなんてできない。どうやら僕の様子に不信感を抱いていた彼女は、仲介してくれた共通の友人に相談していたらしい。しかも僕は仲介してくれた友人と飲むたびに、もうひとりの女性とのことをすべて打ち明けていた。


運命の赤い糸を信じるほど、好きだったにもかかわらず、僕は見放された。自業自得だった。辛いことは重なるもので、もうひとりの女の子も彼女と別れない煮え切らない僕の態度を見て離れていった。
それは医学部に落ちることより悲しかったし、なんとか許しを請えないかとも願ったがそうはうまくいかない。大事な人は失って初めてわかると誰かが語っていたのを思い出す。本当にそうだ。彼女ともうひとりの女の子に依存することで保たれていた自信はまたも下降線を辿っていく。その気持ちを忘れるように、以前よりもバイト仲間たちと飲みに行き、現実から逃げるようになっていく。

アルバイトや酒を飲むことに逃げていたら、いつの間にか大学3年生になっていた。同級生より年上だったから、みんなより早く時間の経過を感じていたはず。前期の成績を受け取ると単位を落としたことを表す「D」ばかりが並んでいる。同じクラスの友だちは、成績表を見ながら一喜一憂。「オレはギリギリ4年になれそう」というやつもいれば、常にクラスで成績がトップだった大人しい子は黙っている。誰かが成績表を取り上げると、そこには「A」しか並んでいなかった。冷やかされ照れる彼。


「オレは4年で卒業できないの確定だわ」


その合間をぬい、発言した僕の言葉に皆は沈黙した。少し前で言えばKY的な、その場の雰囲気を壊してしまう悪い癖が出てしまった。悪意があって壊そうと思っているわけではないが、発言したい時に発言する。いい意味で言えば素直。悪く言えばセルフィッシュ。
沈黙に耐えかねた僕は「まあ、もともと3浪してるし、ここで1年位留年したって関係ないね」と言い放った。するとまたも皆が沈黙。それを破ったのは、服装が派手な彼だった。


「本多ちゃんはなんとなるでしょ。まあ、それより就職どうする?」


と見事に話題を替えてくれた。


理工学部に入学して以来、勉強でオモシロイと思ったのは数学と物理、統計学くらいだった。経営工学という学部だった僕は工程管理や品質管理などを学んでいた。ろくに調べもせずに入った学部で学びながら「このままでは将来は工場長になるか?」と本気で思ったこともある。
冗談じゃない。工場で働きたくはない。だってモテなさそう。それより巷間騒がれているITベンチャーやらなにやら胡散臭いと当時は批判と支持の両方を集めていたITベンチャー起業家にでもなり、ヒルズのレジデンスに住んで、女子アナと合コンでもするか。と一瞬思ったが、よくよく考えるとプログラミングの授業は大ッ嫌いだった。プログラミングの講義はいくつかあったが、常に成績がトップだった彼が書いたプログラムを8割ほど参考にしていたくらい。


幼い頃からやりたいことや常に目標があった僕は初めてなんの将来設計を失っていった。だからずっとアンバランスな状態でいたかった。子どもではないが、大人になりたくもなかった。すでに25歳を迎えていたのだが。


大学では就職に関する説明会が開かれ始めた頃、そんなことは僕には関係がなかった。かといって何かやりたいこともない。時だけが無駄に過ぎていく。3年の後期に「ゲーム理論」という講義を取った。ゲーム理論と謳ってはいるが、実際にはオペレショーンズリサーチや数理計画法がほとんどで、担当していたのは国立大学を退官したばかりのK先生。この講義の内容が面白く、久々に心に火をつけてくれた。大学入学後、初めて講義後に質問に行ったり、これを使えばアルバイトのシフト最適化に利用できますねなどと生意気にも意見したこともある。


「今度、私のオフィスに来なさい」


K先生から声をかけられた。指定された日時に、オフィスの前に立ちノックをする。


「はーい」「本多です。失礼します」「もう少しで作業が終わるからそこに座っていて」


教授のオフィスなんて初めて行った。椅子に腰掛け、緊張しながら室内を見回すと、初めて見る専門書ばかりが並んでいた。研究者の部屋はこうなっているのか。でも意外と狭いんだな。そんなことを思っていると、作業を終えた先生が椅子を僕のほうへ向け話しかけてきた。


「本多くんは、勉強頑張っているね。ところで君はみんなより年上のようだけど、どうしてなの?」
「医学部を目指し浪人したのですが、病気になってしまい、医学部に合格できなくて理工学部に入ったんです」

正直に答えた。大学に入っても教授に反発ばかりしていた僕は初めて信頼できる人物に出会ったと感じていた。

「単位は順調に取れてるの?」
「いや、4年間では卒業できないです」
「どこの高校出身なの?」と矢継ぎ早に質問された。

「そうか。多分、君はこの分野に向いているよ。医学部は向いてなかったんじゃないかな」。

「はあ、才能?才能どころかすべてに自信がないんですけど」と内心では思った。だがそれ以上に、嬉しい気持ちが勝った。久々に認められたと感じた。今になり冷静に考えれば、長い教員生活の間、自信を喪失している学生は顔を見ればわかったのだろう。だからこそ、元気づけるために言ったのにすぎないかもしれない。

「この本を読むかね?私の研究分野の本なんだ」

渡されたのは1000ページ近い分厚い本。実は、K先生はその分野の日本のパイオニアだった。有頂天になった僕は自宅に戻りその分厚い本に目を通した。面白い、こんな分野があるのか。これを専門にすれば、すでに一流企業に就職している友人たちに追いつけるのではないかとさえ思えた。彼女と別れて以来、久しく味わっていない人に認められてもらえるという感覚が、再び僕のなかの消えかかった心の蝋燭に火をつけた。3年間、ろくに勉強をしなかった大学生にとって、その本は難解でしかなかったが、来る日も来る日もノートを片手に読み込み、1ヵ月後K先生へその本を返却に行った。

「どうだった?そんなに難しくないでしょ?」

「え?これが難しくない?どういうこと?」と頭に浮かんだが、心に閉まった。

「面白いですね。卒業研究はぜひ先生の研究室に入りたいです」

「でも、来年は卒業研究はできないでしょ。聴講生としてゼミに参加しなさい」

通っていた大学を卒業するには卒業研究が必須だった。ただし、卒業研究室に配属されるためには所定の単位を満たす必要がある。もちろん、そんな単位数を取得しているわけもない。

でも、もう誰も僕を止められない。この分野を仕事にしたいと考え、聴講生だろうが、なんだろうが関係ない。必死に大学で不真面目極まりなかった態度を改め、数学や統計を勉強した。

1年遅れだが、4年時には皆と同じ用に就職活動も開始。しかしどの面接会場へ行っても、他の学生より最大で4歳上だ。入学式の日のことが思い出される。きっと大学院生だと思われているのだろうな。それよりも不安だったのは、一向に減らない薬や治ったとも言われない病気を、もし面接に進んだ時にどう説明するのか。そもそも言ったほうが良いのか悪いのか。それすらわからない。3年間浪人している上に、一年間の留年のこともなんと説明すればよいのか。検討がつかなかった。そんなことばかりが心配で、肝心の就職活動についてほとんど調べることもなかった。両親もその親も自営業者で、誰も就職に関するアドバイスをしてくれる人はいない。

だから就職活動をするまで、日本ではいわゆる一浪一留程度までしか許容されないことを知らなかった。就職氷河期世代な上に、年齢的なハンデを抱えた僕を入社させるような企業が現れるはずもない。

後に知ったことだが、日本は新卒一括採用、年功序列、終身雇用のメンバーシップ型と言われる雇用慣行が特徴だ。メンバーシップ型では、同じような能力、つまりは同じような学歴と同じような年齢でメンバーの同質性を担保する。そこでは個性や能力は二の次だ。簡単にいえば、会員制のクラブのようなものだ。そのクラブに入る資格を僕は持ち合わせていなかった。日本で初職が非正規の場合、その影響は生涯に渡る。非正規で終える人もいれば、非正規から中小零細企業へ正規雇用されることもあるが、その場合同じような学歴と年齢で新卒一括採用され、大企業に勤める人とは給与の差が激しい。また年収だけでなく、メンタルヘルスなど他の面にも影響を与え続ける。一度、正規のレールから外れた人間は、生涯に渡ってその負債を背負いながら生きていかなければならない。失敗を許さない社会なのだ。

一時的に希望を持ったが、蓋の中に閉じ込め、見ないようにしていた将来や現実を否応なく見せつけられた。僕に将来の希望なんてない。何をしたら良いかわからない。根拠のない自信なんてとうの昔に失った。そんな現実から逃れるように、僕はどんどん刹那的な生活を送るようになっていく。

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