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翻訳者雑感 ことばと文化(星野靖子)ジャングルをめぐって

正月に息子たちと『劇場版ポケットモンスター ココ』を観ました。親子の愛や友情というテーマはもちろん、翻訳者としては特に、ポケモンと人間の言語や生活の違いを描き分けた部分に注目しました。両世界の間で悩む人間の少年ココは、異文化間の伝え合いに日々悩む翻訳者のよう。そして、ネタバレになりますので書きませんが、終盤では通訳翻訳者の職業柄おなじみの、あの言葉が登場します。

また、作品全体からは英文学の名作『ジャングル・ブック』へのオマージュが感じられました。そこで、これから2回にわたり『ジャングル・ブック』とそれにまつわることば、翻訳、文化について書いていきたいと思います。

ノーベル文学賞作家の名作

アニメから実写まで数々の映画になり、世界で人気の『ジャングル・ブック』。1967年のアニメミュージカル映画はウォルト・ディズニーの最高傑作と評されています。近年はディズニーやNetflixのCG技術を駆使した実写映画が話題になりました。

原作者であるイギリスの詩人、作家ラドヤード・キプリングは、19世紀末から20世紀にかけて活躍し、1907年には史上最年少の41歳で英語作家として初めてノーベル文学賞を受賞しました。数多くの優れた詩や短編はジョイスやヘミングウェイら同時代の作家に影響を与え、日本でも芥川龍之介や菊池寛、宮本百合子らに高く評価されています。

連作短編『ジャングル・ブック』は動物文学の草分けといわれます。イソップ寓話をはじめとする動物文学はそれまでにもありましたが、動物たちの棲む秩序社会を創り出し、その中での人間との関係を描いた点が画期的でした。以後「ピーターラビット」「ドリトル先生」「くまのプーさん」各シリーズが相次いで刊行されるなど児童向け動物文学が広がり、エドガー・ライス・バローズの「ターザン」シリーズやジャック・ロンドン『野生の呼び声』に至っては創作面で『ジャングル・ブック』の影響を受けたことを作者自身が明かしています。このほかにも多数の作品に影響を及ぼす『ジャングル・ブック』は、今も存在感を放つ古典的名作です。

動物が会話をして人間と暮らす寓話的な要素と同時に、少年モーグリの揺れ動く心情が描き出された『ジャングル・ブック』の背景には、英領インドで生まれ育ったキプリングの生い立ちも関係しています。英語よりも先にヒンディー語を覚え、11歳でイギリスに渡った際英国式の生活になじめず苦労したというキプリング。そんな両文化の間に置かれた葛藤は『ジャングル・ブック』のモーグリにも反映され、作中のこんな詩に表れています。

Waters of the Waingunga, the Man-Pack have cast me out. I did them no harm, but they were afraid of me. Why?

Wol Pack, ye have cast me out too. The jungle is shut to me and the village gates are shut. Why?

As Mang flies between the beasts and birds, so fly I between the village and the jungle. Why?

From 'The Jungle book' – Mowgli’s Song
ワインガンガの水よ、人間の群れはぼくを放り出した。何も悪いことはしていないのに、ぼくが怖いんだって。どうしてさ?

オオカミの群れよ、あんたたちもぼくを放り出したね。ぼくの前でジャングルは閉ざされ、村の入口も閉ざされた。どうしてさ?

コウモリのマングが獣と鳥の間を行き交うように、ぼくもまた、村とジャングルの間を行き交う。どうしてさ?

山田蘭訳『ジャングル・ブック』(KADOKAWA、2016)「虎よ、虎よ! ~モーグリの歌」より

ジャングルとはなにか

さて、『ジャングル・ブック』の舞台はインドの「ジャングル」です。そこに暮らす動物たちには独自の秩序があり、人間を殺してはならない、無断でなわばりを変えないなど、絶対的不文律のthe Law of the Jungle(ジャングルのおきて)があります。

では、ジャングルとは一体なんでしょうか。あらためて考えるまでもないと思う方が多いかもしれません。でもちょっと、ことばの意味を見てみましょう。

いくつかの国語辞典によると、ジャングルとは「樹木が密生し下生えの繁茂した熱帯の森林。常緑樹、つる植物などが密生する(日本国語大辞典 第二版)」など、熱帯の樹々が密集した地帯という定義になっています。英語のjungleもほぼ同じで「(熱帯の)密林(地帯),ジャングル;(一般に)植物の密生地,湿地帯.」とあります(ランダムハウス英和大辞典)。絵でいえば、たとえばこんな場所。

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さらには密集の意味が転じて混沌、寄せ集め、大都会、アプトン・シンクレア『ジャングル』The Jungleのように無情さ、野蛮さといった比喩的な意味にも使われますが、いずれにしても基本の定義は熱帯地方の密集した森とみてよさそうです。

日本語のジャングルと英語のjungleが似た意味なのは、英語から日本語に入った外来語であるためです。その由来はHobson-Jobson The Anglo-Indian Dictionary (1886)によるとサンスクリットまたはペルシア語であり、英語と同時期にフランス語にもjungleという言葉が入ったとあります。(*1また、Merriam‐Webster's Collegiate Dictionary 11thには、1776年にヒンディー語のjaṅgal( जंगल)とウルドゥー語のjaṅgal(جنگل‎)が英語に入ったもので、語源はサンスクリット語の जङ्गल(jangala)であるという説明があります。

そこで、ヒンディー語jangalの語義を見てみると、

जंगल jaṅgal [jaṅgala-], m. & adj. 1. m. jungle, forest, woods; wooded, or scrub country; a wild or uninhabited region. 2. a thicket; overgrown ground. 3. adj. wild, desolate; lonely. ... (Oxford Hindi-English Dictionary)(太字は筆者)

このように、低木地帯荒涼地という定義がみられます。ちょっと「ジャングル」とは違うイメージのようです。

さらに、サンスクリット語のjangalaの語義を見てみると、

जङ्गल jaṅgala mfn. Noun
1. any arid or sterile region, desert (= जङ्गलपथ (jaṅgala-patha))
2. an area sparingly grown with trees and plants, a wild or savage area (see जाङ्गल (jāṅgal))
3. uncultivated, inhospitable area more or less covered by vegetation
 (Monier-Williams Sanskrit-English Dictionary, 1899)(太字は筆者)

1つめの定義にやせた不毛な荒れ地といった定義があります。なんだかヒンディー語以上に「ジャングル」感が薄れてしまい、もはや正反対の意味のようです。しかも、熱帯という定義はどこにも見当たりません。こうなると、たとえばサウスオーストラリア州アーカリンガ盆地のこんな場所や、

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カリフォルニア州ジョシュア・ツリー国立公園のこんな冬景色だって、

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ヒンディー語やサンスクリット語では「ジャングル」になるわけです。(*2

サンスクリット語の荒地や森に関連する語はjangala以外にも何十種類もあり、現在のジャングルの意味に近い森林や湿地にあたる表現も見られます。それだけ古代インドにおいて森が身近な存在だったためでしょう。古代叙事詩『ラーマーヤナ』でも森がいくつかの重要な場面で描かれており、豊富な語彙表現が用いられています。古代インドにおいて森へ追放されることは「死」を意味し、物語中にもそのメタファーとして描かれています。
また、ウルドゥー語由来の説についても同様です。11世紀にイスラーム教徒が北インドに侵入した頃にペルシア・トルコ系言語と北インド言語が影響し合って成立したとされるウルドゥー語は、インド・ヨーロッパ語族の現代アーリア諸語でありながらアラビア、ペルシア語の借用語を大量に取り入れていますが、ペルシア語で森林を指すjangalにも熱帯の密林という明確な定義はありません。一体なぜ、何十種類もの森を指すサンスクリット単語やペルシア語の中からjangalaが英語に入り、そこに元の意味になかった「熱帯の密林」という意味が加わったのでしょうか。

ことばの「カセット効果」と広がり

実はこのjungleという言葉、英語、フランス語や日本語に限らず、スペイン語やドイツ語、オランダ語、ロシア語等スラブ系言語、デンマーク語等北欧言語など、系統や語族を問わず世界各地の非常に多くの言語に入っている外来語です。

ある言語が別の言語と接触した際に、すでにある語の意味や用法を拡張して新しいものや概念に対応させる外来語の「転用」は、どの言語にも起きうる現象です。これを柳父章はフランス語の宝石箱(cassette)に例えて「カセット効果」と名付け、明治期に西洋から入った外来語がいかに日本語を変えたかを考察していますが(*3、このジャングルという言葉はサンスクリット→ヒンディー/ウルドゥー→英語へとカセットが入れ子になり、さらに日本語等別言語への横の連なりも見られ、いわばマトリョーシカのような構造になっていることが分かります。

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『ジャングル・ブック』が書かれた20世紀初頭といえば、西洋帝国主義時代。ヨーロッパ諸国が領土覇権を巡って争いを繰り返す中、資源搾取等の目的で征服されたインドやアフリカ、南北アメリカ、アジア各地では住民がjungle peopleと呼ばれ、使役労働や奴隷取引に利用されました。気候、植生から民族、文化までそれぞれ異なるはずの各侵略地域にある未開地を、ヨーロッパの支配者が「暑くて鬱蒼として猛獣の棲む野蛮な場所」といった観念でjungleという1語にまるっとまとめていたことが、当時の文献からもうかがえます。その観念を伴ってjungleという語が日本語を含め世界各地の言語に伝わっていったために、元々なかったはずの「熱帯の密林」という語義が加わった原因ではないかと思われます。そうしてみると、当時の西洋帝国主義が世界にどれほどの影響力を持っていたかがわかるでしょう。

人間の深い洞察から近年再評価の声が高まるキプリングですが、ポストコロニアリズムとの対比において、コロニアル(植民地)文学として批判対象にもなってきました。『ジャングル・ブック』の物語はフィクションであり、そこに描かれる「ジャングル」とは人間社会との比較におけるメタファーにすぎません。(*4しかし、作者のキプリングが白人至上主義思想を持っていたのは事実で、サイードの『オリエンタリズム』では白人には未開の世界を開拓し有色人種を支配する責任があるとした、キプリングの詩作品を取り上げています。

なお、英語のjungleは1970年代までは文献の8割以上で熱帯の多雨森林を指す語として使われていましたが、それ以降は環境や気候などの専門分野では廃れ、現在ではドイツ語のRegenwaldを英語化した"rainforest"という語に統一されています。一般の会話やエンターテインメントの世界では英語でも日本語でも今も使われていますが、この先は意味や用法がまた変わっていくのかもしれません。

語彙論(lexicology)のうち語源学(etymology)は言葉の由来や歴史背景、借用や意味の変容を探る学問ですが、言語学の主要分野ではありません。誰がいつどのようにその言葉を初めて使ったかすべての語について突き止めるのは到底無理ですし、労多くして益少なしです。また、ギリシャ、ラテン、サンスクリットなどの古典語を知ることは現代語を深く知るうえで有意義ですが、実用上必須というわけではありません。翻訳者としてはまず、今使われている言葉がどれくらいの人にどのように伝わるかを考えなくてはなりません。

しかし、特定分野の専門用語を定義する場合は別として、一般に使われる単語の意味は、個人や属性により認識差があります。シンプルな言葉ほどむずかしいことは、翻訳者や言葉のプロなら嫌というほど思い知っているもので、そういう意味でも辞書をよく読むことはとても大切です。ましてや、ジャングルのようなふわっとした観念的な外来語であれば、一般的な用法を定義づけようとすればするほど無理が生じるのは当たり前の話です。そんな時にふと、ことばの由来を考えてみれば視野が広がってヒントが得られるかもしれません。納期前の調べ物には、どこまで深く調べるかの見極めが肝心です。でも少なくとも、ことばひとつにマトリョーシカのようにいろんな歴史背景が内包されていることは踏まえておきたいものです。

次回は『ジャングル・ブック』に関連するもうひとつのキーワードを取り上げ、ことばと文化、社会について別の角度から考えてみたいと思います。

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(*1 イギリス統治時代のインドでイギリス人が用いた現地英語(アングロ・インディアン)の語義や語源を編纂した辞書。
(*2 現代のヒンディー語jangalには、英語からの逆輸入の形で、熱帯の密林という意味も含まれます。下記リンクは、16歳から23歳までキプリングが新聞記者を務めた北インドのラクナウ、アラハバードをキプリングゆかりの地として地元紙が紹介している記事。コロニアリズムの批判的な見方ではなく、キプリングを再評価してインドの若い世代に紹介する気運がうかがえます。『ジャングル・ブック』のヒンディー語版タイトルは英語The Jungle Bookを単純借用してデーヴァナーガリー表記にした'द जंगल बुक'(ザ・ジャングル・ブック)。

(*3 河原清志「翻訳とは何か―研究としての翻訳(その6)カセット効果論(1):無限更新的意味生成の営み」(「翻訳通信」第2期第105号)

柳父章の著書は多数ありますが、初めて読む方には『翻訳語成立事情』(1982, 岩波新書)を。他に『未知との出会い 翻訳文化論再説』(2013, 法政大学出版局)は入門書としておすすめです。

(*4 『ジャングル・ブック』は架空の寓話世界を描いていますが、その舞台にはインド・マディヤプラデーシュ州の森が描かれ、ワインガンガ川やウダイプルなど実在の地名が登場します。現在はカーン国立公園ベンガルトラ保護区になっていて、『ジャングル・ブック』ツアーも人気を集めています。

■執筆者プロフィール 星野 靖子(ほしの やすこ)

英日翻訳者。大学卒業後、民間企業に11年勤めたのち2006年よりフリーランスの翻訳者に。マーケティング、エンターテインメント関連の産業翻訳、リサーチ、ライティング業務のかたわら、人文科学、ノンフィクション等の書籍翻訳や編集協力に携わっている。趣味で文芸翻訳の勉強を続けるほか、産業翻訳と学術研究を近づける取り組みに関心があり、ことばや翻訳と社会・歴史のかかわりについて研究中。

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