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きまぐれ日本文学(井口富美子)その2 ほんとうはおもしろい『虞美人草』

夏目漱石といえば『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』、そして『こころ』。明治の文豪は、立派な額縁に入れられ、高いところに飾られて久しい。近年その名を目にするのは、「I love you」を「月が綺麗ですね」とでも訳しておきなさいと教えたとかいう逸話ぐらいだ。今どき、わたしと同世代でもあまり漱石は読まないだろう。ましてや、専門家もほとんど言及しない、駄作とまで言われている『虞美人草』なんて、職業作家となった漱石が心血を注いだ第一作ということはおろか、書名さえ知られていない。今回も、作家の知られざる一面、知られざる作品、そして知られざる文学的実験をご紹介したい。

「生きる意味」を問い続けた作家の原点

漱石は慶応3年生まれ。翌年が明治元年だから、満年齢は明治の年数と同じだ。そして生まれ落ちた瞬間から、漱石には艱難辛苦が待ち受けていた。立派な家に生まれたのに5男3女の末子であるため実父母に疎まれ、里子に出された上に養子に出される。3歳で天然痘にかかり、目立つあばたが顔に残った。9歳で養父母が離婚して実家に戻るが、実父母に愛情はかけらもなかった。多くの作品で「自分は何のために生きているのか」を問い続けた漱石の原点はここにあるといえる。さらに計算高い養父のせいで21歳まで夏目の姓に戻せなかった。しかも後年この養父から執拗に金を無心される。

学校も親兄弟の思惑で転々とし、漢学・文学を志すも長兄の指示で英語に宗旨替えする。子規も驚いたほどの漢文、漢詩の才能の持ち主だった漱石。やがて英文学を学ぶことに疑問を抱くのは当然だったのかもしれない。

苦学した長い長い前半生

実母や兄たち、兄嫁など近親者を次々亡くし、教師のアルバイトをしながら大学予備門に通う。26歳にしてようやく帝大英文科に入学。文部省の貸費生、特待生となる。優秀な成績で卒業したのち英語教師となるが、結核の徴候があり療養を余儀なくされる。松山や熊本など、地方に赴任したのはそれもあってのことだろう。

29歳、熊本赴任中に妻を娶る。東京育ちで天真爛漫だった鏡子は孤独と流産でノイローゼになり入水自殺をはかる。二年後、長女筆子誕生。ようやくの家族団らんも束の間、翌年(1900年)には妻子を残してイギリスに留学。官給の学費ではゆとりなく、物価高のロンドンで困窮。実家に身を寄せた妻子(留守中に次女誕生)も着の身着のままに近い状態で、海岸に打ち寄せたヒジキを拾い集めて食べるほどだったという。一時懐疑的になった英文学研究に再び没頭するも神経衰弱が悪化、「夏目発狂」のうわささえ流れ、1903年に帰国。

戻った漱石は東京帝国大学に講師の職を得たが、人気の高かった小泉八雲の後任であったため、ロンドンから持ち帰った『文学論』などまじめ一方の授業は評判が芳しくなく、八雲留任運動が起こるなど、気の毒な状況が日本でも続く。心身耗弱して突然癇癪を起こす夫に鏡子も困り果て、一時別居するなど家庭もきわめてあやうい状態。この時すでに36歳。

短かった作家生活

亡くなったのが49歳だから、残された時間は三分の一、13年しかない。だが暗かった人生もここへきてようやく好転する。神経衰弱の治療にと高浜虚子にすすめられて書いた『吾輩は猫である』が予想外の好評を博したのだ。漱石は作家として生きていくことを決心する。当代きっての英文学者として西洋のさまざまな書物を読んできた漱石は、次々に新手法を試みていく。今風に分類すれば、『吾輩は猫である』でユーモア小説を、『坊ちゃん』でYAを、『草枕』で青春小説を書き、人気作家の階段を駆け上がる。

どの作品もすこぶる評判が良かった漱石に、朝日新聞社から誘いが来た。熊本時代から文学を志し、もともと教職が性に合わなかった漱石だが、地位も名誉も金も約束された帝大教授への誘いと不安定な職業作家との間で心が揺れ続ける。この間三女と四女が生まれており、さらに妻は長男純一を妊娠していた。卑近な例で恐縮だが、私も会社を辞めてフリーランスの翻訳者になるときは悩みに悩んだ。一番の問題は「果たして食べていけるのか、子を養えるのか」。休みの日、公園で子供を遊ばせながら、真っ暗になるまで考え込んだこともあった。その時の決め手は、冷静で客観的な能力評価と私ならできるという自負。漱石が決断したのも、文学研究よりも文学がやりたいという思いに加えて、書ける、書きたい、自分には才能がある、という確信だったにちがいない。その瞬間、漱石の中で「小説家」が覚醒し、大変な野心家の顔がのぞいたのではなかったか。

ほんとうはおもしろい『虞美人草』

朝日に入社した漱石が専属作家として最初に書き上げた『虞美人草』は日本初の「新聞連載小説」であり、新聞購読者という一般人を意識して書かれている。岩波の全集では1回ごとの区切れが記されており、うまいところで読者の期待を翌日につないでいるのがよくわかる。これにはかなりの構成力と技術が必要で、しかも先例はない。何度も言うが日本初だ。漱石が張り切りすぎて話が複雑になったとも、凝った文章でわかりにくいともいわれ、失敗作という人さえいるが、当時の読者は流行作家漱石に毎日しっかり食いついてきた。その人気にあやかって、三越は商魂たくましく「虞美人草浴衣」なるものまで発売している。虞美人草(ヒナゲシ)の花が一面に配されたモダンな柄だったという。
おぜん立ては通俗小説、若い男女六人が織りなす恋と打算の物語。男性陣はお勉強こそできるけれど、おめでたいわ、ふがいないわ。女性の方がよっぽど真剣に生き方を考えている。その辺は鴎外と同じ、洋行帰りの漱石も、不平等な立場におかれた女性に目配りを怠らない。読者の一番人気は、純真で幸薄い乙女二人を大きく引き離し、美人で気位が高くわがままで気の強い藤尾。テーマカラーは紫で、名前さえも派手派手しい。しかも藤尾は婚期を逃しかけときているのだから、ますます目が離せない。高慢な和製クレオパトラの運命やいかに。当時も賛否両論となった結末まで、読者は藤尾の一挙手一投足を、日々かたずをのんで見守った。

もしお読みになるなら、初めの三分の一を過ぎるまでは忍の一字でお願いしたい。登場人物六人を順に紹介する趣向だが、その間シェイクスピアはよしとしても、プルターク英雄伝だのゴルディアスの結び目だの、明治の読者向けにさりげなく解説が挿入されてはいるものの、西洋の文化や概念がふんだんにちりばめられている。まあ高等遊民の男三人(正確には一人は苦学生)がそれぞれ哲学、法学、文学を専攻しているので仕方ないっちゃあ仕方ない。それよりも令和の読者に手ごわいのは仏教用語。日本人なのにいちいち注を見なければ意味がわからない。それと、物語の視点がやや込み入っている。元英文学研究者がプロ第一作の気負いで書いたため、三人称全知視点だが自由間接話法で登場人物の内面も語られ、さらには作者(漱石)が突然語りに登場するなど、わかりづらい箇所がいくつかある。作者は三分の一になる手前にも顔を出し、「ここから小説が始まる」と書いている(えっ、じゃあ今までは何?)。だが、ここまできたらこっちのもんよ。ようやく六人の運命が転がりだす。会話が多くなって読みやすくなる。藤尾のきわどい物言いも楽しめる。ああ、だがそれまでが長いのだ。ご承知あれ。

実験に次ぐ実験

次の連載『坑夫』も、『虞美人草』と同様あまり言及されない作品だ。自分の体験を売りたい、それを小説にしてほしいと漱石の家を訪れた男が語った実話に基づく異色の小説である(当時は「揮真文学」と呼ばれた)。良家の青年が家出して足尾銅山の坑夫になる物語を、漱石は一人称で書いている。しかも主人公はごくたまにしか「自分は」と言わない。ほとんど主語なしで話が進むので、読んでいると自分の目がカメラになったような不思議な感覚に襲われる。心の状態を「意識の流れ」に近い方法で追及した二十世紀小説の先取りともいわれている。『虞美人草』とは全く違う種類の、とても同じ人が前後して書いたとは思えない小説だ。漱石の実験はさらに続き、『夢十夜』で幻想小説を、『三四郎』ではこちらも日本初といわれる教養小説(ビルドゥングスロマン)をものした。その2年後には『三四郎』に触発された森鴎外が『青年』を書いている。

円熟期も実験

『三四郎』で一通り実験を終えた漱石の筆は、それ以降前期三部作(『三四郎』、『それから』、『門』)、後期三部作(『彼岸過迄』、『行人』、『明暗』)と、いっそう冴えわたる。だが晩年、この後期三部作に挟みこむように新たな実験も試みている。『こころ』では「明治の精神の犠牲者」が描かれるが、そのテーマ自体が漱石作品の中で際立って特異だ。『道草』は「私小説」と定義する人がいるほど自伝的な色が濃い。義父に金を無心されるごたごたが片付かない上に、夫婦の意見もことごとくかみ合わない。けれども漱石は妻側の言い分も対等に並べ、批判がましいことは書かないでいる。そこが私小説にならずぎりぎり踏みとどまれたゆえんだろう。

天才の秘技

しつこいようだが、漱石はこれだけの小説をわずか13年の間に、しかも『虞美人草』から未完の『明暗』まで、すべて新聞の連載小説として書き切った。大阪朝日新聞に寄稿した「文士の生活」という随筆で漱石はこう語っている。

「新聞の小説は毎日一回ずつ書く。書き溜めておくと、どうもよく出来ぬ。矢張一日一回で筆を止めて、あとは明日まで頭を休めておいた方がよく出来さうに思ふ」

やはり漱石は天才だ。こんな芸当、いったいだれにできるというのだ。
続いて漱石はこうも書いている。

「障子に日影の射した処で書くのが一番いいが、此家ではそんな事が出来ぬから、時に日の当る縁側に机を持ち出して、頭から日光を浴びながら筆を取る事もある。余り暑くなると、麦藁帽子を被って書くような事もある。こうして書くと、よく出来るようである。すべて明るい処がよい」

末子の夏目伸六によると、癇癪を起こしていない時の漱石はやさしかったという。縁側で麦わら帽子をかぶって一回分の筆を進めるちょっとかわいい漱石が目に浮かぶようだ。


私のおすすめ本

● 漱石を読むなら
どれを読んでもおもしろいけれど、一押しは後期三部作の『彼岸過迄』、『行人』、『明暗』。長いのは苦手という方には『夢十夜』。

● 現代の小説なら
水村美苗作品。『本格小説』(上下巻、新潮文庫)は日本版『嵐が丘』。冒頭からぐいぐい引き込まれ、一気読み間違いなし。漱石の後期三部作を読まれた方は、未完『明暗』の続編、『続 明暗』(新潮文庫)をぜひ。さすが筆達者の水村さん、漱石からシームレスで読み継げる。あと、小説ではないが、翻訳者なら『日本語が亡びるとき』(ちくま文庫)は必読。


結びにかえて「月が綺麗ですね」に一言

冒頭にも書いた漱石の「I love you = 月が綺麗ですね」翻訳説。あれは作り話だと思う。根拠となる文献もない。たとえ英語教師時代であろうと、漱石がそんなことを教えたとは思えない。まったくらしからぬ文言。鴎外と違い、漱石は文学を翻訳する気など毛頭なかったし、万が一訳したとしてもこんなセンスのない訳にはしないはず。以前新聞で「…漱石が“月が綺麗ですね”と訳すよう学生に言ったとか言わなかったとか」と書かれているのを目にしたことがあり(朝日だったと思う)、校閲の苦肉の策だな、やはり確証はないのだなと、わが意を得た次第。


執筆者プロフィール 井口 富美子(いぐち ふみこ)
ドイツ語翻訳家。
大学では日本文学を専攻。学生時代は明治以降の文学史に載っている本を片っ端から読破(中には読んだふりの本も)。卒論は夏目漱石、テーマは「漱石の描く女性と近代的自我」。卒業後は日本近代文学館に就職。優秀な同僚やトップクラスの研究者、作家、編集者に鍛えられる。学生時代からドイツ映画、ドイツ現代美術に熱中し、紆余曲折の末、通訳を目指してベルリン・フンボルト大学に留学。壁崩壊前後の激動の時代を体験する。帰国後は実務翻訳で生計を立て、数年前から出版翻訳に軸足を移し、文筆活動にも手を広げている。訳書は『深淵の騎士たち』『スマイラーとスフィンクス』(以上、早川書房)、『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』(共訳、左右社)ほか、年内には『夜ふけに読みたいおとぎ話』 シリーズでグリム童話の巻が出る予定(共訳・監訳、平凡社)。


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