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リレーエッセイ「訳書を語る」/生き残る本を目指して(赤坂桃子)

ドイツ語翻訳の赤坂桃子と申します。「自分の推しの訳書を2つ選んで紹介してください」という「お題」を頂戴しましたが、その前にちょっと古い話からはじめさせてください。

わたしの最初の訳書が出たのは1983年です。柴田書店のP. et J.=P. エーベルラン著『エーベルラン兄弟のアルザス料理』という、カラー写真が美しい立派な本で、有名なフレンチのシェフ三國清三さんとの共訳でした。オリジナルがドイツ語だったので、大学卒業後に編集者になったドイツ文学科の同級生経由で話がきました。当初は下訳を、という依頼だったのですが、最終的に共訳者に据えてもらいました。フランス東部、アルザス地方のポール・エーベルラン、ジャン=ピエール・エーベルラン兄弟が経営する世界的に有名なレストラン「オーベルジュ・ド・リル」のレシピ本で、当時、このレストランをはじめとする欧州の有名レストランで腕を磨いて帰国したばかりの三國シェフが、プロの立場から訳文をチェックなさっています。その後の三國さんのご活躍ぶりは、皆さんご存じのとおりです。

この出版年は下の子が生まれた年なので、忘れられません。仕事を引き受けてから妊娠したことがわかり、仕事環境もまだ整っていなかったので、こたつを机代わりに、消しゴムのカスまみれになって翻訳しました(当時はまだ原稿用紙に書いていた時代でした。わたしが最初のワープロ、NECの「文豪」を買ったのはそのあとでした)。上の子はこたつのまわりで、足の踏み場がないほどおもちゃを散らかして一人で遊んでいました。うまい具合に出産直後にゲラが出て、校正を行い刊行されたので、担当編集者の方はたぶんわたしの妊娠・出産をご存じなかったと思います。恥ずかしながら確定申告のなんたるかも知らず稿料をもらったまま放置していたので、それから何カ月も経って、朝、子どもを幼稚園に連れていこうとしてひょいと玄関のドアを開けたら、税務署の職員の方が二人待ち受けていて、びっくりしたのなんのって。

わりとすらすらと1冊目の共訳本が出たので、てっきりこの調子でこれからもうまくいくと思ったら大まちがい。その後は翻訳企画をあちこちに持ち込み、断られつづけ、なんだか自分の全人格が否定されているような気分でした。ようやく企画が通り、みすず書房からハドン・クリングバーグ・ジュニア著『人生があなたを待っている-〈夜と霧〉を越えて 1・2』(ヴィクトール・フランクル評伝)が出たのが2006年です。

その間も産業翻訳者として、おびただしい量の欧文をせっせと訳しつづけました(その量の多さだけは、誇れるかも!)。産業翻訳・通訳の仕事は30年以上つづけたでしょうか。やっぱり、翻訳が好きなんでしょうね。でも当初から出版翻訳をしたかったので、持ち込みはつづけていました。もっとも、次の翻訳本の企画が通るのが20数年先だとわかっていたら、20代のわたしはこの道に入るのを躊躇していたかもしれません。

『希望のかたわれ』

いささか枕が長くなってしまいましたが、ここからが本題です。1冊目の「わたしの推し翻訳本」は、2015年に河出書房新社から出たミステリ、メヒティルト・ボルマン著『希望のかたわれ』です。

冬の寒空の下、北ドイツの農場主レスマンは、薄い服を身にまとって逃げてきた若い女を匿い、追っ手の男たちを銃で追い払う。一方、チェルノブイリ原発の立入禁止区域〈ゾーン〉で暮らす女性ヴァレンティナは、行方不明の娘カテリーナのために自らの思い出をノートに綴りはじめる。そして、ウクライナ警察の警部レオニードは、姿を消した若い女たちを追ってはるばるドイツに旅立つ。1930年代の大祖国戦争から、社会主義大革命、第二次大戦中の忌まわしい出来事、チェルノブイリの輝かしい日々……。戦争と原発の暗い記憶を抱えて生きる人びとを描く文芸ミステリ。

『希望のかたわれ』帯文より

この本は、新聞・雑誌の書評などにも取り上げられました。評論家の野崎六助さんは日本経済新聞の「回顧2015 私の3冊」で本書を真っ先に挙げ、「『希望のかたわれ』はチェルノブイリ原発事故の惨禍をEUからの観点で構成した物語。ウクライナの警察、ロシアの人身売買組織、事故後に生まれた子供たち。複数のストーリーを交互に進め〈現在〉に迫る著者の方法は、前著『沈黙を破る者』につづいて、圧倒的なパワーを放つ」と評価いただきました。

また、漫画家の萩尾望都さんは、本書を「私が薦める河出の本」に選び、「戦争があった。チェルノブイリの事故があった。過去を振り返りながら今を生きる人々。勇気と希望を持って。戦争を体験し、福島を体験した我々もまた、長い時間のつながりの果てにある今を考えずにはいられない」と書いてくださいました。

著者メヒティルト・ボルマンがこの作品を書いたのは、2011年3月の東日本大震災、福島の原発事故のニュースをテレビで見たことがきっかけでした。「自分のふるさとを失った人たちはどうしているのだろう?」という疑問から、福島の人々の姿を「チェルノブイリの大災害後、住む家を失った人たち」に重ね、ウクライナへ取材旅行し、徹底した調査の末に生まれた作品です。

本書が生まれた経緯をネットのインタビュー動画で知り、「日本語版へのあとがき」をボルマンさんにメールでお願いしました。見ず知らずの一翻訳者からの突然の依頼なのに快諾してくださり、ほんとうに嬉しかったです。

この本は、今日までずっと大災害がもたらした結果とともに生きることを余儀なくされている人たちの存在を忘れないためのささやかな試みです。

「日本語版へのあとがき」より

しかし、本の売れ行きは芳しくありませんでした。悲しいことですが、売れないと同じ作家の別の本の企画を出しても取り合ってもらえません。ボルマンの文芸ミステリで特に訳してみたい本は2冊あります。

ある家族の歴史を通じて、ソビエト連邦とその崩壊を描いた『ヴァイオリニスト Der Geiger』(天才ヴァイオリニスト、イリヤ・グレンコと彼の愛器ストラディヴァリウスの数奇な運命を描く。本作のフランス語訳は、ドイツ人作家として初めてフランスの雑誌「エル」の文学賞を受賞)、それに、ハンブルクで1947年1月から2月にかけて実際に起きた「ハンブルク連続瓦礫殺人事件」を下敷きにした物語、『瓦礫の子 Trümmerkind』です(ボルマンの作品ではいちばん売れていて、何カ月も雑誌「シュピーゲル」のベストセラーリストに入っていました)。いつか翻訳できるといいのですが。

『NSA』

さて、推し翻訳本の2冊目は今年の1月に出たアンドレアス・エシュバッハ『NSA』上下巻(ハヤカワ文庫SF)です。

「第二次大戦中のドイツで携帯電話とインターネットが発展し、高度な監視システムが構築されている」世界を描いた歴史改変SFで、上下巻合わせると1000ページ以上になる長編。この本も、ざっと振り返っても5人の編集者に打診したり、レジュメを出したりしました。ようやく出版の目処がたったときは、とても嬉しくて歓喜の舞を踊りたいところでしたが、そのあとどんでん返しでダメになったケースも何度か経験しているので、「小さく」万歳しました。

本書は、複数の媒体で取り上げられています。山形浩生さんの解説も全文公開されていますし、ネットで読める記事もあります。

2018年に本書が出たときには、著者のアンドレアス・エシュバッハもさすがに、数年後にロシア軍のウクライナ侵攻をきっかけに、世界が抜き差しならぬ泥沼に入りこみ、これまで目をつぶってきたいくつもの問題が一気に顕在化するとは想像していなかったでしょう。現実の世界のほうがSFのディストピア小説よりもっと「先を行って」しまっているのかも、と思うと背筋が寒くなります。目の前の現実とかぶっているだけに、エンターテインメント小説として軽い気持ちで「読んでねっ!」と勧められなくなったのが、つらいところです。

さて、わたしですが、冒頭に書いた当時と比べてあまり変わっていない気がします。共訳者の有名シェフにお目にかかったこともないし、「カエルのリースリング風味」も、「ホロホロ鳥の胸肉ストラスブール風」も、「ハト胸肉とキャベツとトリュフのパイ包み」も食べたことはありません。でもこのあいだ面白いことがありました。俳優の石田ゆり子さんのInstagramを見ていたら、お部屋の写真の背景にこの本が写り込んでいたのです。どんな経緯でそこにあるのかは知りませんが、本のいのちはとても長い。ことによればこっちが死んでもまだ生き残る。それが仕事をつづける小さな心の支えかもしれません。一度ぐらい「仕事が次々に向こうのほうから舞い込んでくる」翻訳者になってみたいけれど、わたしはわたしらしく、地を這う虫のままやっていきたいと思うこの頃です。


■執筆者プロフィール 赤坂桃子(あかさかももこ)
ドイツ語翻訳者。既訳書はアンドレアス・エシュバッハ『NSA上・下』(早川書房)、ヤン・モーンハウプト『東西ベルリン動物園大戦争』(CCCメディアハウス)、ブルンヒルデ・ポムゼル他『ゲッベルスと私』(共訳、紀伊國屋書店)、トーマス・ラッポルト『ピーター・ティール』(飛鳥新社)、ハンス・ファラダ『ピネベルク、明日はどうする!?』(みすず書房)、トム・ヒレンブラント『ドローンランド』(河出書房新社)、メヒティルト・ボルマン『沈黙を破る者』、同『希望のかたわれ』(以上、河出書房新社)、イレーネ・ディーシェ『お父さんの手紙』(新教出版社)、マルセル・ローゼンバッハ他『全貌ウィキリークス』(共訳、早川書房)、宇宙英雄ローダン・シリーズ(早川書房)など。

ヴィクトール・フランクルが創始した心理療法「ロゴセラピー」を10年ほど学ぶ。フランクル関連の翻訳書は次の通り。
フランクル評伝:ハドン・クリングバーグ・ジュニア『人生があなたを待っている-〈夜と霧〉を越えて 1・2』(みすず書房)
ヴィクトール・E ・フランクルの著書:『夜と霧の明け渡る日に』、『ロゴセラピーのエッセンス』(以上、新教出版社)、『精神療法における意味の問題』(北大路書房)


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