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沈黙と…

遠藤周作の『沈黙』は色々な意味で、日本仏教を考える時に大事な小説だと思う。

外国生まれのキリスト教が日本という国に定着しようとする過程で生じる軋轢や弾圧を描く。

特に日本仏教における外来宗教の変化として捉える過程で、本書を引用したのが末木文美士『日本仏教史 思想史からのアプローチ』です。「終章 日本仏教への一視角」で「沼地」日本の部分で使われています。

キリスト教が日本という沼に入り変容していくことをピックアップしていて面白い。

この問題は中世の仏教とくに浄土宗や日蓮宗の新興仏教が民衆にうけいれられていく過程や祖師の考えが次世代に正確に伝わるのか?といった課題を伝え手からみるのでなく、伝わる相手からみると言う点でも重要な描写を行っている。 

伝道者の孤独感は残された文章にあらわれてはいる。例えば、日蓮聖人で言えば、代表的な著作(『開目抄』)を佐渡に流されている間書かれている。弟子や信者さんの法華経が伝道者を守ると書いてあるが、結局佐渡に流されている。どうしてか?と言う問いへの答えである。

これは信仰への弾圧への解答なのだが、それだけ強い弾圧を受けたということであり、沈黙出でてくる踏み絵を踏むに近い状態だったと考えられる。

お題目を唱えるは、鎌倉時代の寺院へ年貢等をはらわない。自由への道であったことが、後の熱原法難でわかる。お題目を唱えるが反社会的行為と受け止められたのであろう。唱えるを日蓮聖人は強調するが、それは唱えるという行為がいのちに別状があったからであり、今唱えるとは行為における価値がことなると考えられる。

個人的には、それが良いか悪いかはわからないが…弟子の疑問はよくわかるかし、まーその時代に生きていたら・・正直、自分は唱えないだろうなとは感じます。

さて、それはインドの時代の仏教、釈迦の仏教として是か非かと言えば、恐らく否になると個人的には考える。仏教はあくまで僧院の中でカーストを否定し、社会の問題に口を出していない。しかし、日蓮聖人は口に出した。それはなぜかと考えると、「牛馬が巷に倒れ」命が保全されない政治。すなわち身の安全がはかられない世界であり、政治家が現在の社会を諦め、来世に期待していたからであろう。釈迦の思考そのものではないが、その延長上に存在する思考なのだとは言えると思う。

そう考えると沈黙で描かれた農民の苦悩、神への信仰への心の動き。非常に考えさせられると思う。

神仏への加護を願ってしまう精神状態も含め

では政治と仏教、宗教の関係性はどうあるのがよいのであろうか?

塩野七生『神の代理人』のメイキングでのべられた文章を引用しよう。(文庫本には載ってない文章です。)

政治と宗教の関係はどうあるべきかが人間社会の重要課題であったことは、二千年昔の古代ローマでも、一千五百年昔のルネサンス時代でも、二十一世紀の現在でもまったく変わっていません。なぜなら政治は社会生活を担当し、宗教は精神を担当するのだから、精神を担当する別のこと、例えば哲学に興味のない人にとっては、人間として生きるうえでの両輪のようなものだからです。(中略)つまり政教分離することで、古代ローマもルネサンスも十八世紀の啓蒙思想も、この問題を解決しょうと努め、また相当な程度には成功してきたのです。
  しかしこれ以外の時代は、宗教が政治の分野を侵してくるんですね。(中略)
  なぜこのような現象が起こるのか考えてみたのですが、私ごときに解答が得られるわけはないのは当たり前だけど、いつ、何が原因で宗教の反撃といってもよいこの種の現象が起こるのかはわかる。宗教の反撃期に共通しているのは、まず第一に政治が機能しなくなること。皇帝のものは皇帝に、のはずなのに、皇帝が統治能力を失ったのが第一の原因です。政治が機能しなくなること、それは経済にはね返ってくるから、生産性は落ち、インフレは庶民の生活を直撃し、経済力の衰退は安全保障への出費の削減につながるので、安全と食の保証という人間の二大基本要求を満たせなくなる。現実がこの惨状では、人々は来世に望みを託さざるをえず、また日々の生活でも、強力な何かにすいがりでもしないと生きていく力さへも失ってしまう。宗教が猛威を振るうのは、地獄は死後のことではなく、現世のことになってしまった時代なのですよ。
(中略)マキアヴェッリの言葉ですが
  「天国へ行く最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである」
 と知り、その線で生きていける人のことです。ところが、不安と絶望の時代では、地獄に行く道とは何かを知ろうとも努めず、ただただ天国に行こうと願ったあげくが地獄に行ってしまったと言うことになる。(塩野七生『神の代理人』新潮社 四〇八・四〇九頁)        

『神の代理人』メイキングでは「政治が機能しなくなる」ことにより「安全と食の保証という人間の二大要求を満たせなくなる」結果として人々は「強力な何かにすがり」つくとのべている。
『安国論』は、安全と食の保証という人間の二大要求を満たせなった現状を憂い、その原因を強力な何かにすがろうとする精神であるとし、為政者の精神を正すことで政治を機能させようとするものではないだろうか。また、「不安と絶望の時代では、地獄に行く道とは何か知ろうと努めず、ただただ天国へ行こうと願ったあげく地獄に行ってしまった、ということになる。」という指摘は、現実を直視しせず、神仏にすがるイメージ(『安国論』「今世には性心を労し、来生には阿鼻に堕せん」)とも符号する。

このように述べると神権政治的考えに肯定的と捉える方もいるかもしれない。実は個人的には否定的である。現代社会にこの思考をそっくり持ち込むのは無理がある。

現在日本は民主主義であり、選挙により成り立っている。政治家の責任だけを問える世の中ではない。むしろ我々が正しい選択をし、次世代への善き社会へのアプローチを行うことが大切となろう。

現代社会における仏教の役割は何か?おそらく選挙や政治に直接かかわることではないと個人的には思う。むしろ、自分の都合で見ない、弱きもの、マイノリティの目線で社会をみ、一市民として提言をすることや選挙で投票することではないだろうか。

沈黙から随分遠くにきた…沈黙くしてないじゃんとツッコミをいれ終わりにしよう!

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