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脱資本主義かSDGsか

宗派の某研究所の嘱託を拝命している。毎年、中央教化研究会議なるものを行っている。

本年も9月9日にオンラインで行う予定である。テーマはSDGsに決定されている。テーマ自体は問題ないが、基本、好意的に考えているようだ。

この点に関して、個人的には否定的にとらえている。SDGsは「持続可能な開発目標」の意である。この考えが仏教に導入されもてはやされている。果たしてそれは是であろうか?

この問題を考えるのは開発という表現である。開発は「かいほつ」と読めば東南アジア特にタイで僧侶の社会貢献をする僧侶 開発僧をイメージする。この開発を「かいほつ」と読む場合、意味合いはどうなっているのであろうか。

『岩波仏教辞典 第二版』では 

開く、起こす、教化もしくは修行にかかわる表現、文脈によって意味が異なるが、次の三義に大別できる。1)迷妄を取り除く。2)功徳・道行・菩提心・覚性などを起こす。3)前二者を兼ね,総じて衆生を悟らせる。

とある。悟りへ向かう心を起こすことなのであろう。

そこには開発「かいはつ」があるのではない。『新潮国語辞典 第二版』では以下の様に述べている

①山地や原野を切り開くこと②産業を盛んにして資源を活用すること ③人の隠れた能力などをひきだすこと④新しいものを考えてつくりだすこと

SDGsは①、②の意であることは明々白々である。悟りへ向かうこころとは雲泥の差である。

さて、地球温暖化をどう越えていくのかという課題に対して、このブログでも何度か触れたが、斎藤幸平『「人新世の「資本論」』では

政府や企業がSDGsの行動指針をいくつかなぞったところで、気候変動は止められないのだ。SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果でしかない。(4頁)

その上で、SDGsを「大衆のアヘン」と位置付けている。仏教界はこのSDGsをどう捉えるのか?つい最近出版された『不要不急』で南直哉さんは以下のごときに述べています。

資本主義の根本原理である「私的所有」とは、正に対象物を(廃業を含めて)思いどおりにできることである。すると当然、資本主義が規定する社会では、多く所有する「自己」こそ存在の強度が高くなる。(「金がないのは首の無いのと同じ」)。                                          それは、所有行為によって「自己」の存在を根拠づけることである。ならば、諸行無常を標榜して、「自己」それ自体の存在を錯覚に過ぎないと考える仏教が、返す刀で私的所有に極めて否定的な態度を示すのは、実は当たり前である。(235頁)

ここでは、資本主義が私的所有を肯定する思考であり、仏教は諸行無常、諸法無我に基づくから資本主義に否定的と述べている。この思考を聴いても、開発を自然と調和しつつ行えなえる。すなわち我々の快適な生活を維持しつつ生きていきたいという願望は達成できると考える方もいるであろう。

それに関しては、まだ見ぬ世界故、どちらが正しいと言い切れる人物はおそらくいない。ただ、仏教はSDGsと脱成長のいづれの思考を選ぶべきか?はある程度見えてこないだろうか。

100de名著『資本論』で斎藤幸平氏は下記のごとく述べている。

マルクスが目指した豊かさは、個人資産の額やGDPで図れるようなものではありません。GDPだけを重視する経済から脱却して、人間と自然を重視し、人々の必要を満たす規模を定常するという意味で、私はこれを「脱成長」型経済と呼んでいます。(119頁)

上記の文章を見ても仏教は開発よりも脱成長を考えるべきでありましょう。まして、法華経には三草二木という自然との調和、すなわち人間界の都合だけで考えるべきでない思考が示されています。

では、抽象論として脱成長が述べられても具体的にどうするべきなのか?

この点に関しては下記のブログでも書いた

上記のブログではコモンの再生を問題にしているが、歴史上この問題に実際関わっている人物が一人いる。

インド独立の立役者、マハトマ・ガンディーである。塩の行進を行い、塩をつくり、投獄されも非暴力、不服従で独立を勝ち取ったガンディーであるが、インドの独立を考える過程で直面したのが、富みである綿花の流出でありました。安値でイギリスに買い取られ、機械により作られた製品としてできたものを買う。これにより、庶民は富を失っていく。そこを防止する方法として普通なら、自国を機械化しようとなるところを、糸紡ぎ車で製品をつくるを選択しています。

100de名著『獄中からの手紙』では以下のごとくガンディーの文章を引用し、中島岳志氏が指摘されています。

機会などやっかいなことに人間たちが巻き込まれると、奴隷になり、自分の道徳を捨てるようになる、と祖先たちは分っていました。祖先たちは熟慮し、私たちは自分の手足でできることをしなければならない、といったのでした。手足を使うことにこそ真の幸せがあり、そこにこそ健康があるのです。(『真の独立への道八二ページ)                                   この「手足を使う」ということは、ガンディーにとって非常に重要な点であり、日々の「行」ともつながっていました。カラカラと、無心になってひたすら糸車を回し続けることは、読経や座禅に近い行為だと思います。ガンディー自身も糸車を回すことを毎日の欠かせない日課としていました。(101頁)

資本主義的考えを否定し、手足を使うに価値を見出す。その製品は国際的貿易でなく、地産地消に基づくという考えです。グローバル社会のある種の否定でもあったのでしょう。資本論とガンディーに共通して問われているのは、豊かさとは何かという問題だと思います。所有や貨幣とは確かに必要です。ただそこに捉われ振り回されることで失われる時間や資源それを見直す。

私も便利さやリーズナブルさに負けて、コンビニに行ったり、〇二クロを使っています。しかし、その在り方をもう一度問うべきであり、自然環境との関連や地産地消やフェアトレード(貿易的不均衡を減らす)行為をなるべく心がける必要があると思います。

仏教があるべき思考とは、自然との調和を行いつつ、欲望の増長を抑えるという考えではないでしょうか。とするならば、SDGsを盲目的に肯定するのではなく、本質を問う、自らを問うという行為につながらないといけないのではないか?もう一度立ち止まって考えることが必要だと考える今日この頃です。


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