正解はないと知りつつ
昨晩、オンラインでとある会合で話をさせて頂いた方々とスピンオフの会を行わさせて頂いた。世話人をして頂いた方に半場、無理やり開いてもらった形で…医療や介護の現場に立っている方々と対話を試みた。
発表や講習、読書会やデス・カフェなどを行う機会はあるが、それらは下打ち合わせをし、多少なりとも支度をする。
しかし、今回は前回講習に参加し、講習後アンケートにお応え頂いた方々との対話であり、事前質問を多少持っているという状況で行った。
事前質問も基本、目を通しただけで、その場で答える形で行った。
さて、出来の良し悪しは私にはわからない。ただ質問に答えたり、対話をする。仏教や宗派の思考を知りつつもそれでは、答えられない問題に立ち合う。その時に自分の中から出てくる言葉に自身で驚く。
言葉が出てくるという感覚であり、言葉にすることで自己が改めて認識しているという感じである。
質問は医療や看護のギリギリの体験もあった。答える私は、経験不足はある。一方で、仏教で考える時に有用なのは、我々には欲望があり都合でものを見てしまうこと。我々の力では、変えられないものがあること。向こうからやって来てしまうことをメタ認知し、そこから物事を整理することである程度ものが見えることであった。
また、質問に答える中で、来世観や死後観に対して仏教だけで答えずプロテスタントの考えから始め、仏教の考えを提示もした。既存宗教の考え方いわゆるOS的な考えを今の人生に活かしてみる。すると問題がクリアになるのでは?と考えたのだと…後になって自分で分析している。
さて、アンガーマネジメントに関する質問もあった。瞑想や念仏、唱題を心の中で行うと答えても怒りが生み出される時は制御しずらい。それが仕事への真摯な向き合いから生じたものであり、それが患者や顧客に必要なサービス提供につながる指摘ならば、伝えることは重要であり、場合によっては責任感から口調が厳しくなることもあるだろう。
そこでは、6秒まてば怒りは減るといっても難しいのではと答え、呉兢『貞観政要』の「三鏡」「銅の鏡」、「人の鏡」、「歴史の鏡」の話をし、「銅の鏡」自分を見つめる鏡の必要性を話した。
その折、他に助言できることがあったなー根がかりを起こしつつ…
他にも多数質問にも答えつつ2時間ほどの対話は終了した。
さて、根がかりを考えていたら思い出したのは…このラジオ、さすが横田南嶺老師だと感じる。
我が不明を反省しつつ。
ただ一つ知ったのは、対話をしつつ。いままでの経験と知識が今の私であり、それ以上でもそれ以下でもない。
最後に感想をいただき終了したが、概ね好意的であり(リップサービスもあるだろう…)、ありがたい時間を頂いた。
ここで感じたのは、丸裸な一人の人間として、浅学非才であっても問に向き合うことを恐れないことが大切なのだということであろう。
経験値では、医療者や介護職の形に比べ自分は足りない。それでも対話が成り立つなら、それは仏教的見地に基づくメタ認知や檀家さんや自己の家族の喪失との向き合い。そこでの経験から見える、違った視点であり、そこが僧侶が関わる意味合いなのかもしれない。
どうやらこの対話は続けようと世話人をしてくださった医師は述べてくださった。ありがたいことであり、この対話から自分も多くの学びを頂いた。考え深い時間であり、ある種の修行時間でもあった。
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