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逆境を力に

4月21日の読売新聞に田中ウルヴェ京さんが『「感謝」選手に芽生えた』と題してインタビューに答えた記事が載っている。

シンクロナイズドスイミングの五輪メダリストの田中さんはスポーツメンタルトレーニング指導士として、アスリートたちの心理ケアをしているそうです。悩み相談を受ける中で、なぜこの競技をやっているのか?とか試合から遠ざかる不安などを聞いているとのこと。

その中で、五輪開催が中止しても努力はいつか表れるとし、セカンドキャリアかもしれないと述べている。さらに選手たちは、試合ができる喜びや感謝を通常以上に感じている。間違えなくすごい結果を出すと述べている。

結果がどうであるかを求められるアスリートの世界、その代表になれる人は、僅かだし色々なものを背負う。大変だと思う。一方で、結果は競技だけでないという視点、人生という視点は大切だと感じる。

手前みそだか、法事をすると故人のあり方が、今の家族のあり方につながっていることを強く感じる。今コロナ禍になり、法事前もしくは後に故人をどう思っているかとか?今の心境を聞くようにしている。

そこにあるのは、つながりの大切さだと思う。故人を偲ぶなかで良かったところ、悪かったところを思い出す。良きところを真似し、悪しきところを反面教師として今をいきる。故人の肉体はないが、今も参列者の心の中に生きている。過去は変えられない。確かに事実はそうなのだが、我々の気持ちと行為の変化により位置づけは変わる。ある意味で過去は変えられるとも言える。

さらに言うなら、我々もいずれ亡くなり、死者となる。今偲んでいる我々も偲ばれる存在となる。

正直ものが馬鹿をみる世界は、確かに嫌ではあるが、上手く立ち回るぐらいなら馬鹿て有りたいと考える自分がいる。つくづく度し難いが…

努力は報われると考え、初期仏教は自業自得を説く。大乗仏教は回向(功徳すなわち行為の結果を他者に回す)が加わる。一見矛盾に見えるが、そこにあるのは、まず自己のあり方が大切なのだということではないだろうか?偲ばれる値する人生だとおもう。

できているとはとても言えないが…

今はコロナ禍になり、我々はリアルなつながりが制御されている。ある意味で、多くの人々は自分を見定める修行僧になる機会を頂いている。

その時間でなにを得、何を失い、何を見定めるのか?問われていると思う。田中さんの話はその点を強く喚起してくれたと個人的に思っている。

ブッダのことば(スッタニパータ)には

およそ苦しみが起るのは、すべて動揺を縁として起る。諸々の動揺が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。(750)                                        「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って、諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気をつけて、遍歴すべきである。(751)

とある。動揺を知り、捨て去り、気をつけて遍歴する。今という時代が我々に問うているものは大きいのだろうと感じる。

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