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依存か成長か

昨日、今ごろか?と言われそうだが・・

『居るのはつらいよ』を読み終わらせた。

とある読書会で、参加者の方々がこの本の話をしていて、知ってはいたが、読んでない。話にのれない、恥ずかしいという展開で買って読んでみた。

さて、基本、学術的な本のはずだが、小説仕立て、日常を追いながら、そこにあるドラマとその裏や、知識というものの役割、ケア、セラピー、アジールと言った言葉の本来的な意味を教えてくれる。

ケアとは傷つけないことである。(271頁)
セラピーとは傷つきに向き合うことである。(274頁)
アジールとはシンプルに言ってしまうと「避難所」のことだ。(286頁)
「アサイラム」とは社会学者のゴッフマンが用いた用語で、「全面的施設」と訳される。(中略)ようは収容所とか、刑務所とか、あるいは古い精神科病院のように、そこに「いる」人を画一的に管理する場所のことを言う。(303頁)

辞書的に書けば数行だが伝わらない、微妙なニュアンスを絶妙な文章で我々に教えてくれている。

ここで展開しているのは、デイケアの日常なんだけど・・実はこれ、寺院にも当てはまるのでは?なんて考える。

サードプレイス

寺院をサードプレイスにしたい、しようという話は、実は今までも話されてきたし、自分も目標というか、目指してきた。

問題はサードプレイスの位置付けに関してですね。

ケアは基本、受益者は成長を求められていない。一方で、セラピーは成長を求める。

アジールは避難所であり、アサイラムは拘束される場と言える。

デイケアは、ケアであり、セラピーであり、アジールを目指しているが・・実際は、ケアでありアサイラムになりかねない事実を明らかにしている。

これは実は、お寺にとっても大きな問題であろう。お寺に人が来て欲しい、ご縁があったらと思う。それは、関わり、つながりこそが、寺院の役割であり、公益性すなわち無税の理由であると、個人的には考えるから・・

現実にリトミックや子育てサークルとかは、宗教活動でないし・・場所貸しで儲けたことはないです。(リトミックは月謝は全額先生の元にいく、その代わり金額を抑えてもらってます。子育てサークルは無料)

これはある意味ケアか?セラピーか?といわれればケアであるが、成長しすだっていけるからアジールとなる。

だが・・出入り自由でないものや依存度を高くし、出られなくなるような雰囲気を作ればアサイラムになる。

目的と手段

テンプルモーニングで、出席票やご褒美的なものをやらない理由はここにある。来るものは拒ます、去るものは追わずという形である。依存でないサードプレイス、アジールというのが目的かな?

寺的には毎日遊びに来て欲しいかもしれないが、社会構造的には基本的に高齢になっても働いて欲しいことになる。健康体操もよいが・・(現実にうちも月1の信行会でやっていたが)・・毎日の運動をお寺でとなると、機能回復ならよいが、回復したなら社会保証費の問題もあるから・・働けるなら働いてもらう。農家なら農業をして頂く方がよいのでは?なんて考えてしまう。

なぜそう考えるが・・それは『日本の未来を考えよう』を読んだからです。

健康寿命を伸ばす方法として一番いいのは定年制を廃止して年齢フリーで働くことです。仕事をやめて家に閉じこもれば、認知症が進み、健康寿命も短くなることは統計的にも明らかです。(172頁)
定年退職後に急に認知症を患う男性がいたり、子どもの家に引き取られた親が急速に老け込んだりという話はよく聞きます(174頁)

本書を読んでみると、社会構造、グランドデザインからものを見ることが必要なのがよくわかる。現実に出口治明先生は帯書きに

「保険料を半分にして、子育て世代を支援したい」その思いで、還暦で生命保険会社をたち上げました。

と書かれています。その方法として、インターネットの保険会社を立ち上げたわけです。目的にあわせて手段がある。

上記の指摘を参考に考えるならば、精神的にも肉体的にも自立した老後を社会が求めていると言えそうです。寺の活動としては成長を促す、依存されない距離感での活動が好ましいということなのでしょうか?目的が参加者の成長ならよいが、寺への依存を促すなら問題かもしれませんね。考えさせられます。

いずれにせよ、三密を避けるなかで、多少なりとも社会貢献も考えながら活動を考えていきたいと思います。

嫁さん貢献は?聞かないで(笑)





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