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答えのない旅

草むしりをしながらラジオやユーチューブを聞いていますが・・

これはとてつもない話だと思う。自分もこのノートで死をどうとらえるか?を書いたが・・これ見てると親鸞的な考えだったのかな?なんて考えたりもする。そうならざろう得ない人間としての自分を見せられている。

コロナと死

何度か、コロナと死に関してもかいてますが、ここのところで考えていることを改めて書いておきます。

コロナってなんだろうって考えたとき、出口治明先生の『仕事に効く教養としての「世界史」Ⅱ』の指摘がやくにたつと思います。

ブローデルという歴史家の「長波」「中波」「短波」に触れています。「短波」は「歴史の表層に登場する個人やさまざまな出来事」「中波」は「たとえば王朝の興亡や長期にわたる戦争、宗教の発展やイデオロギーがらみの紛争」「長波」を「自然環境や地理的条件や気候、さらには人間の日常生活を精神的に支えている死生観や人情のような非常にゆっくりした変化しか起こさないもの」と紹介しています。

とするとコロナウィルスは「長波」になり、死生観や人情をかえるものと言えます。

死は変わらないが、死生観は変化するかもというわけです。 

現実に葬儀になり、ご自宅に伺ってもお茶もいただけないし、参列も小人数、一般の方、友人、知人はお参りしたくとも長時間の着席は難しいケースが出てきていて、喪主も気をつかうケースは増えています。

通夜振る舞いは禁止ですから、喪主と友人、知人はろくに話す機会もなく、個人をしっかり見送ったという感覚にもなりずらい。

結局、喪主さんが世間体を気にして傷つくケースも出ています。

また 、家族が肺炎でなくなるとコロナの疑いがあるということで、検死が入るケースも出ています。この場合、喪に服すという感覚にもなれませんし、もしコロナでなくなっていたらと心配する場合もあると思われます。

また、参列者にもし罹患したらと親族の参列をお断りして、家族間でギクシャクなんてケースも・・

死の周辺は難しくなってきています。

最近、岸見一郎先生の本を読みました。

個人的に気になったのは、延命治療に関するところです。

基本、岸見さんは延命治療に肯定的です。

親が延命治療について実際に治療を必要とすることが起こる前に話し合いができることが最善である。その際、親が延命治療を望まないという強い意思を表明すれば、その意思に反して延命治療を行うという決定を家族がするのは難しいが、親に代わって延命治療をするという決断をしても、できるなら親がそれを許してくれる信頼関係を親が病気で倒れる前に結んでおきたい。(119頁)

この表現だと、本人が強い意思で延命治療を拒まない限りやる方向性だとおもわれます。共同体感覚とか今を生きるという考え方は同意できますが、延命治療の問題は考えてしまいます。

岸見先生は、苦しみが不幸とは限らないという考えなのですが、痛みは自身のものであるため他者の精神状態のための判断でよいかは疑問です。

コロナ禍の中で

改めて見えてきた死の周辺の問題、残される家族と当人の苦痛、これを解決する方法があるとすれば、死の準備教育であり、人生会議ではないかと思います。

改めて死の周辺を再検討する場所として、寺院が頑張るところに来ているのかな?


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