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お盆というシステム

本日はお寺さんの新盆御見舞に伺いました。お経を読み、少しお話をいたしましたが…

葬儀の折はコロナもあり参列制限だったので、事前のお別れ、お参りが多く対応で余計な考えがわかなかった。ただ、弔問に訪れた方々とお話をする中で徐々に癒やされていく経験ができた。

そこから数カ月がたち、またさびしい時期をむかえたときお盆となり、みなさんが来て下さり、寂しさが減ったと感想をのべられた。お盆というシステムの素晴らしさを示している感想なのだろう。

今年は期せずして、グリーフ・ワーク(悲嘆の支え)を学んでいるが、日本の仏教の七日経や49日忌、一周忌、三回忌は優れたグリーフサポートの機会なんだと感じます。長い年月をかけて築かれたものであり、守るべき習慣だと感じます。

高橋卓志『現代いのちの用語辞典』ではグリーフ・ワークの文章で、以下の如き表現がされている。

たとえば、仏教でいえば、葬儀や中陰法要という死をめぐる儀式がそれにあたる。葬儀は死を証すための大切な儀式であり、あえていえば現実を直視させんがための非常な手段といえる。また人間の感情や記憶が減退していく過程に入り込む七日ごとの法要は、その時々に適切に悲嘆を癒すセラピーでありカウンセリングであると位置づけられる。そう考えると、古来より行われてきたその期間の儀式が、じつは悲嘆を癒す大切な、そして機能的なシステムであることが理解できてくる。これは外的なグリーフ・ワークと位置づけられよう。しかも中心になってこれを動かし、悲嘆の支えになっていかねばならない存在が仏教者であることに気づくはずなのだ(67頁)

「七日ごとの法要は、その時々に適切に悲嘆を癒すセラピーでありカウンセリングであると位置づけられる。」読経そのものが、癒しの部分もあるでろう。無理に話す必要はない、必要となれば、向こうから話かけてくれる。読経とお茶を通じて個人を偲ぶ。共にあろうとするそこからしか始まらないし、出来ないと感じる。七日ごとに伺っているが、会う話すを繰り返すことで徐々に話すことになっていく。

今、コロナ禍では、どうしてもお茶を飲めず、マスクごしの会話になり短時間になってしまうが、回数を重ねることで共有する時間を増やしながら悲しみを共有することが大切になっていると感じる。

「悲嘆の支えになっていかねばならない存在が仏教者であること」を理解することはできたとしても、そのようにできているかと言われると心もとない。それでも、努力をしつ続けるしかないのであろう。

ちなみに、67日連続投稿してきたノートも今日で一休み、塔婆書きやお経回り、施餓鬼の執行のためです。

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