お寺の使命、僧侶の使命
最近のことだが、あるところから墓地の宣伝をしませんか?お檀家さんの声を届けませんか?という趣旨のお話を頂いた。
パンフレットを送って頂き目を通したが、お断りした。印象が悪かったわけではないし、そういうやり方が間違っていると言いたいわけでもない。一寺院の代表として考えれば、墓地で関係性ができるのはありがたいと考えるのは、普通だとは思う。
一方でフェイスブックでこのような記事がでた。
この二つの事柄は何を示しているのだろうか?
視点の相違
これら二つの考え共通点と相違点を考えてみたい。
宣伝は、受益者にインタビューする目線でかかれるのだから、ある意味、こちら側でないかに見える。しかし、そこには言外に寺院の思いや欲望が乗っている。墓地が売れて欲しいという言葉が・・。子育てサークル等あわよくば、檀家さんになってくれたら、嬉しいとは言ってはいるから、間違っているとは言わない。地域によっては墓所の件を必死にやるところもあるだろう。現実に、代務寺院では永代供養墓的なものを今さらながら作ろうとしているから、宣伝するかもしれない。
しかし、ある意味それは、決して本休寺で嫁さんと培ってきた寺院のイメージアップになるか?と言われるとどうもそういうものではない。つながりや口コミというものが生命線だと考えて運営してきたから・・
一方で、高橋卓志先生の記事は、今の我々寺院の問題を明確化している。この文章を読んで感じるのは、檀家制度にあぐらをかき、つながり、口コミを大切にしなかったことや仏教が問題とした四苦とくに死苦の問題へのアプローチの軽視だと思う。
私も含め、お坊さんの多くは、亡くなって枕経からその方の死と向き合う。しかし、人間は生から死へ向かうのだから、死へ向かう課程がある。その課程は医師であり、亡くなると遺体搬送から汚い大変な部分を葬儀社にしてもらい綺麗に清拭された遺体にお経を読む。果たしてそれで納得して貰えるのだろうか?
死の準備教育へ
布教を教えを弘めると考えて、宗祖はこうだったとか言ったりする。それは実に臨場感が伴わない。理由は、その時代の宗祖は我々のような枕経ではなく、死に逝く人々と向き合う、納得できない死と向き合うが出来ていた上で行われているからだし、生前の関係性が密だからだろう。
だから、今、自分は365日、24時間枕経に伺うし、出張ならなるべくすぐに帰る。電話を頂き搬送手配もするし、遺体が自宅に着くとすぐに伺い、相談をする。故人の人生を伺い、戒名と引導文をつくる。遺体が家にある限り伺って毎日お経を読む。7日経に伺う。
豆ではない性格だが、それくらいのことはする。逆にそれくらいのことしかできない。
生前から亡くなることやよりよく生きる方法を検討することの方がもっとよいのに・・。
そこでエンディングノートの記入会やもしバナカード体験会などを行い。コロナ前にはデスカフェを企画していた。
お会式改革へ
このような気持ちが生じて、年に一回だが、本休寺では、お会式(日蓮聖人への報恩法要)で記念講演を頂くようにした。頼む時はありがたいお話はいらない。人生に役に立つ話をしてもらっている。少しずつだが、檀家さん以外の方々も参加してくださりうれしい。
寺院の役割が墓地の販売と葬儀の執行だけなら営利事業団体と変わらない。文化財を持ち、存在そのもので社会貢献できている寺院もあるし、やれることは寺院規模で異なるから、一概に断罪はできない。都市部や風習でできないこともあるだろう。
しかし、現在なら寺院を開いて、檀家さん以外の方と関わる方法もあるし、間伐材塔婆の使用やエシカルな作務衣の購入など様々な方法もある。
生意気な言い方をしてしまったかもしれないが、自分も一歩でもよい寺院をよい形で次世代に渡したいと思う。
ただし、それはお金が中心でなく、信用や信頼が中心であってほしい。ホームページは持っているし、宣伝はしてはいるが・・。
それより大事なのは、自身のあり方であり、周りに宣伝して貰える寺院なのかなのだろう。
まだまだ努力しなければならない。