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原稿づくり

実はとある場所で発表しなくてはならないことになっている。つい最近、二週間ぐらいでと言われあまりに拙速なものになりそうでお断りをしたが、今年中にはやらねばならない。

実はやりたいなーというネタが数点はあるが、そのためにはまだ目を通したい。見直したいものがあり、資料をみなおし、精査する必要がある。

論文を書くということ

院生時代ではあるが、毎年必ず一本、できれば、2本書こうとしていた時がある。これは、実は難産で常にテキストを見て、考え、答えを探している。

大体だが、風呂に入って何気なく考えていると・・下りてくる。ところが‥それをメモし忘れそれこそ水泡にきす。(笑)

そんな繰り返しの中でなんとか一本ひねり出す。しかし、これって 身体に論文を書くことを覚悟させ、いつも考えるように仕向けないと無理なんだとこの頃知った。

在野で考える

結局、博士課程満期中退という、長い長い時間を費やし中退という格好悪い肩書きになり、在野に出た。

この折り、今になれば良かったとは思うが、色々あって書庫の本をほぼ八割古本屋に売り、金に換え、家族に焼き肉をおごっている。(笑)

そんなこんな感じで、坊さんとして生きていく感じになっていたら、とあるところから某研究所へとなり、研究員という肩書きをいただいた。

それでまた、一年に一本は書くに変わったが、まあ学会発表とは違い、興味の赴くまま、今自分と寺院の課題を考え、書くという行為をしていた。これは貯金すなわち経験や知識で補いながら、ある意味の気力で乗りきるをやっていたのだが・・十年目の発表は苦しみ、楽になりたくなり、嘱託へ移動。気が向いたら発表へとシフトした。

産まない楽さと産みの苦しみ

寺院運営と発表って全くやることが異なるが、それでも情報収集は大切だし、そこで得たものを消化し、次に繋げるは意外に両方に必要なことではあるのですが・・

しかし、徐々に論文を書く身体でなくなっているのは、こういう時にわかる。やらねばならないが、ある程度見えるが・・全く解析度が上がらない(笑)

断りはしたが、やれるか見直すが、今一。

寺報もいつも短い文章ながら苦しむが・・

習慣の大切さ

話は変わるが、キンコン西野さんが一万時間費やすとその道の専門家になれる。それを何個かもてばレアな存在になると書いているが、時間をかけて作る作業は大切で、ある程度の知識とカンが曲がりなりにも身に付く。

しかし、本は読んでも意識が変わると、書けなくなる。読む考える適当にインプットし、アウトプットと、発表もしくは論文を支度するはやる作業が同じでも日常のあり方や意識が違う。

そうか・・読む習慣は同じようでも、意識が違う。考える習慣が違うんだ。

小学校とテンプルモーニングの掃除の違い

掃除や読経も同じ習慣だが、位置づけで得るものが、変わってくる。小学校での掃除時間や朗読と、テンプル・モーニング(お寺朝掃除の会)の掃除と読経は異なる。なぜだろうか?

位置づけと理由かもしれない。

小学校での日課はやろうやるまいとそこにいてよいし、そもそもそのために来ているのでは、ない。一方でテンプルモーニング(お寺朝掃除の会)は、そのために来ている。そこに居る場所と役割があり、実はその行動、行為に価値が与えられる。そもそもやりたくなければ、来ないですし・・

居るための意識、あり方の意識か・・

なんだかお坊さんも同じかもしれない。日本のお坊さんは、律(教団内の法的ルール)がない。でも戒(倫理)はある。倫理を感じ生きるって意識だ。ましてや仕事というには一生涯だし、私は24時間365日が住職と言っているから、実は休みはない。

要するに生き方なんだと考えれば、それぞれの意識のあり方で変わってしまう。豊かさというものも、富なのか?経験なのか?友人関係なのか?

そんな面倒を考えながら、あたふたし始めている・・(笑)



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