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音楽付きの夢


変な時間に眠ると変な夢を見る。

ムーミンのことを思い出していたせいか、ムーミンの本の挿絵が妙に鮮明に、インクの滲みやぼかし、文字の周りにできる余白まで、詳細にクローズアップされて出てくる。

海の生き物たちがそれぞれの生きづらさをつぶやく独白が、手書き風の文字として挿絵のなかに織り込まれている。陸は海より悲しきものをというけれど、海だって皆かなしいのだ。寂しいのだ。水の中は青々として冷たい。ゆらゆらした存在として生きる心許なさ。忘れ去られてゆくかなしみ。「わたし」は存在したのか、しなかったのか?

そうした無数の声たちが、水の中でゆらぎ、溶け合いながら雪のように降り積もる。静かに静かに、永遠に。

わたしのよく知っている、お気に入りの一冊らしいのだが、しかし目覚めてみると、わたしはその本を知らない。そんな本はなかった。

わたしの夢はわたしの思考回路そのものなので、とりとめなく展開するのが常だが、たまに何の脈絡もなく音楽付きの夢を見る。

先ほどの夢ではインターホンの音によって中断されるまで、ショスタコーヴィチのオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」第1幕第3場、カテリーナのアリアがなぜか流れていた。足を引き摺るような重々しい弦楽合奏、切々たるカテリーナの孤独感。

もう少しアリアの世界に浸っていたかったけれども、インターホンの鳴る現実の方も無視できないので、仕方なし起き上がることにした。

カテリーナの孤独感に引き摺り込まれると、物質的現実世界を生きられない。さりとてカテリーナの孤独感を無視し続けても、物質的現実世界を生きられない。社会的と言ってもいい。物質として存在し、社会的な顔を持ったニンゲンとしての自分を演じることは、心と身体、個人と社会、そのどちらに重きを置きすぎても続かない。結局はバランスを取るしかないのだ。

などと、きれいにまとめたかったわけではなかった。夢の手ざわりを何らかのかたちで再現したいとよく望む。それでにわかに書き付けてみたのだった。






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