【掌編小説1】くらげの花
やけに明るい満月の晩だ。アルバイト先のカラオケ店からの帰り、奏(かな)はさらりと晴れた夜の円山町を、ダリアのコサージュのついたサンダルで歩いていた。足元から顔の高さまで、くらげの花がふわふわと風に舞う。くらげの花は、月光を背負って上空を泳ぐイワシの群れに反射して、鳥肌が立つほど美しい。西日や朝日もまばゆくていいが、鮮明な月光ほどくらげの影を確かに描くものはない。
サメが泳いでいる空の下を、郊外から遠征して来た暴走族が群れを成して走りすぎていく。彼らが仲間ではない相手を格下に見る時に「雑魚」という表現をするのは、みんなが義務教育で様々な種の雑魚たちと席を並べて、揃って同じプログラムをこなしたからだ。自分たちに比べて相手は「その他大勢」だとか「一般人」とでも揶揄したいのだろう。安易にその言葉を使う人は、雑魚のウロコの、吸いつくようでいてあきらかにこちらを拒絶しているような絶妙な肌ざわりや、柄の奥ゆかしい美しさには気づいていない。
奏のすぐ隣を、華やかな熱帯魚の稚魚がチラチラ泳いでいく。
「魚って、小さいときからすでに柄がはっきりして、ちゃんと魚なんだな」
この光景を見るたびに奏は感動する。魚たちだって人間の赤ん坊を眺めながら「人間って赤ん坊の時にはすでに、人間の形をしているんだ」としみじみ思っていることだろう。
奏の頭上で、天の川の下を魚が泳いでいる。彼らの背びれ越しに満天の星が見える。魚の尾のひとかきで星座が小さな渦を巻く。魚達は寿命を全うすると空をまっすぐに浮かんでいくので、空の底に暮らす奏たちは魚のその後を見る事はない。
奏は自動販売機で炭酸水を買った。ボトルを取り出そうと屈んだとき、周辺のビルの門前にある、大きなサンゴの影に思わず目を奪われた。なんとまろやかな輪郭で、複雑に影を落としていることか。まるでモダンな家具に見える。
「いつか、こういう素敵な家具に囲まれて暮らしたいな」
サンゴの先端の丸みを指先でなぞっていると、視界の端で三人ほど、バラバラに夜空をまっすぐ浮かんでいくのが見えた。激しく動きでもしたのか、周辺には空気の粒がいくつか、キラキラと月の光を返している。人が亡くなったのだ。
円山町ではときどきこういった事件がある。三か月前には、カラオケ店の隣のビルで抗争が起こった。奏がゴミを出そうと非常階段に出たとき、ちょうどビルの非常階段から、赤いツヤツヤしたジャケットを着た青年が二人、腹を天に向けてゆっくりと浮かんでいくところだった。今日のように気泡が彼らの周辺に散っていた。魚の群れの間を浮かんでいく三人を、奏は目で追った。
奏がカラオケ屋でアルバイトを始めたのも、それまでバイトしていたバーの店長が天に昇ったからだ。店長が命を上げたのは、二子玉川にある自宅マンションからだったが。
空の果てには外側との境界があり、その外側にも人がいるそうだ。その人たちは表面に浮かんできた異物を、適宜、網ですくって処理するのだと聞いたことがある。
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