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じいちゃんが5歳にかけた呪い

風に揺れるたてがみ、パンパンに張ったトモの筋肉、芝の上を駆け抜ける足音に耳を澄ませながら、最近はタニノギムレットという競走馬のぬいぐるみに跨り、毎日競走馬の動画を見て過ごしている。         

 僕は約1年半働いた、従業員数がグループで2万人の会社を辞めた。新しい職場は社員が2人しかいない小さな競馬関係の会社である。元々競馬は好きだったので、会社を辞める前もたまに動画を見たりはしていたのだが、新しい職場が決まってからは毎日のルーティーンになっている。

なぜこんなことになったのだろうか。     

 僕は5歳だった時、両親が離婚し、実家暮らしだった影響もあってか、生粋のじいちゃんっ子だった。じいちゃんとの思い出はキャッチボールやサッカーボールのパス交換ではなく、毎日畳5畳ほどの小さな部屋でブラウン菅のテレビに張り付いて、一緒に競馬を見ることだ。「この血統はよう走るんや。」「オッズが高い時が狙い目や。」などと僕にこれでもかというような満面の笑顔で競馬の魅力を教えてくれた。正直、保育園に入って間もなかった僕にはほとんど理解できなかったと思う。それでも、特にレースの終盤、最終コーナーを 各馬が回って、最後の直線。観客の大歓声に押され、騎手達の合図と共に直線を颯爽と駆け抜けるサラブレッド(競走馬)の姿に5歳の僕は取り憑かれた。そんな日常の中、5歳の僕はそれに応えるかのように必死に馬の名前をチラシの裏紙に書き殴り、騎手や競馬場の名前だけでなく、レースのオッズ倍率の計算方法まで覚えてしまった。 母親は女手一つで僕を育ててくれたので、習い事は一切していない。世間的に見ればギャンブルという良くない教育。母親は一体どんな気持ちだったのか。


 だが、そのおかげなのだろうか、保育園や小学校のテストは余裕だった。百マス計算のタイムはクラスで誰にも負けたことがなかった。母親は周りのママ友に「一体、お子さんに何をさせているのか」と聞かれ、困っていたそうだ。じいちゃんは保育園や小学校のテストで毎回100点を取ってくる僕をまるで自分のおかげだと言わんばかりのドヤ顔で僕の母親を見ていたに違いない。


 しばらくして、母親が再婚し、新しい父親が出来た。家族で競馬場に初めて行った時、父親に売店で一番大きい馬のぬいぐるみを買ってもらった。ぬいぐるみの馬の名前は「タニノギムレット」。僕は「ギムレット」と呼んで、買ってもらったぬいぐるみにいつも跨っていたせいか、じいちゃんは「将来はジョッキーだな!」と嬉しそうにしていた。


 ところが、それからすぐにじいちゃんは病気で死んでしまった。あまりにも突然の死だったので、今振り返っても、多分人生で一番泣いた。涙が止まらなかった。初めて身近な人の死を体験した。しばらく僕はショックのあまり、大好きな競馬を見ることもなかったのだが、ふと、つぶらな瞳でこっちを見るギムレットを見つけた。ゆっくりと跨った。不思議と落ち着く。声が聞こえる。「ふうや!まだレースは終わってないぞ!最後まで見ろ!」そうだ、まだゴールじゃない。最後の直線を見なかったレースなんてなかった。この日からギムレットは僕の相棒的な存在となった。ギムレットに跨ると、なぜか落ち着く。まるで自分の感覚が研ぎ澄まされるようだった。時間が経つごとに跨ることは少なくなったけど、何か考えごとをする時は家でいつも跨っていた。志望校を考える時、欲しいプレゼントを考える時、彼女とのデートプランを考える時。いつでも僕の近くにギムレットがいた。

 あれから20年、競馬関係の仕事への転職の話をもらった。これは真剣に考えなくてはならない。ギムレットに跨った。じいちゃんの声が聞こえる。「ふうや、まだレースは終わってないぞ。」20年経って呼び起こされた自分のやりたいこと。「そういうことやったんか、じいちゃん。」僕はまるでギムレットに背中を押されたかのように、競馬の世界を選ぶことを決心した。


 じいちゃんが僕にかけた「競馬」というこの呪いを解くことは不可能なのかもしれない。けれど、僕はじいちゃんとこれから最終コーナーを回り、あの最後の長い直線を駆け抜けるような事が出来るんじゃないかと想像しただけで、興奮が抑えきれないのだ。

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