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PERCHの聖月曜日 12日目

歌舞伎を実際に経験して、まっさきにわれわれに思い浮かぶ連想は、サッカーである。これは、スポーツのなかでも最も集団的なものであり、最も全体的効果をねらうものである。声、拍子木、身振動作、謡い手の張りあげる大声、折りたたみのきく幕–––こういったものはすべて、それぞれ、バック、ハーフ・バック、ゴール・キーパー、フォアワードであり、劇というボールを相互にパスし、観衆というゴールを目ざしてドライヴし、観衆を茫然とさせるのである。
歌舞伎では、これこれが「附随の部分」であるなどと語ることは、不可能なことである。それは、ちょうど、われわれが歩いたり走ったりするときに、右脚が左脚に「附随する」のだとか、両方の脚が横隔膜に付随するのだ、などということができないのと同じである。
歌舞伎においては、演劇の「刺戟」は、単一の、一元的な感情刺戟として生ずる。日本人は、演劇のひとつひとつの要素を、(さまざまの感覚器官に向けられる)いろいろの種類の働きかけの一つとして他と同じ標準で計ることのできない独立の単位と考えないで、演劇の単一の単位と考えるのである。

––––エイゼンシュテイン「歌舞伎・予期しなかったもの」『映画の弁証法』佐々木能理男訳編,角川書店,1953(昭和28)年

Chessmen (32)
Eskimo, Franz Joseph Land
ca. 1885

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