見出し画像

お水の花道──歌舞伎町編 第5回

母は読書家だった。

私が中学時代にもっとも読み耽ったのはコバルト文庫の氷室冴子や新井素子だったが、それらを読んでいると後ろから頭をはたかれ、「そんなもん読む暇あったら、夏目漱石とか森鴎外読め!」と叱られた。

高校1年生のときだったか、現代国語の教科書の巻末に、明治から現代までの歴史年表と主要な小説が掲載されたページがあって、母に読んだことがあるか訊いてみたことがある。私が書名を言い、母が著者名と、読んだか読んでないかを答えた。確か300冊ほどあったと思うが、「それ知らない」というのは2、3冊くらいで、9割以上読んでいた。

聞けば、高校時代はつまらない授業があると、教師にそれとわかるように小説を読み始め、しかも中間テストや期末テストではよい成績を収めていたらしい(なんちゅー、嫌味な女子高生だ)。

その母がいちばんハマっていたのが、ロシア文学だった。

特にドストエフスキーとトルストイが好きで、私に『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』だけでいいから絶対に読め、と言っていた。高校を卒業したらお金を貯めて、最初にロシアの赤の広場に行くのだ、と心に誓っていたらしい。卒業後に東京に出て、小さな劇団に所属していたころも、チェーホフの『かもめ』のニーナを演じるのが夢だったと言っていた気がするが、これはもしかしたら私の妄想かもしれない。

二番館のお客様で印象に残った人は、母のお客さん以外だと、片手に満たない。東京ヒルトン インターナショナルのカトウさんに続く2人目は、原卓也さんだ。

原先生はロシア文学者であり、東京外国語大学の名誉教授でもある。二番館に連れてこられたときは外語大の学長をしておられた。連れてきた人が「この人はロシア文学の翻訳をしているんだよ」と言うので、お名前を聞いてびっくり。新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』を翻訳した方ではないか! 

私は母がどれだけロシア文学を愛していて(つまらない授業よりドストエフスキーを優先するくらいに)、高校時代の夢はロシアの赤の広場に行くことだったと伝えた。原先生は私の話をにこにこと聞いてくれて、「今度お食事でもしましょう」と同伴に誘ってくれた。

帰宅して原先生さんが店に来たことを母に伝えると、母は軽くショックを受け、

「私が二番館に勤めていた10年間は来なかったのに……。あんたは本当にそういう人と出会う運があるんだね」

と悔しそうに言った。その言葉のせいだったのか、もはや記憶にないが、原先生との食事に母を誘い損ねてしまった。

後日、原先生が指定したのはフレンチレストランで、円テーブルに向かい合わせに座った。私はたぶんそこでも母の話をして、あとは大学生活についてとか、聞かれるままに喋ったのだと思う。

風邪気味だったのか、緊張していたのか、急に洟が出てきた。私は「すいません、ちょっと」と断り、その場でティッシュで鼻をかんだ。すると原先生はものすごく傷ついた顔をして、「淑女」だったか「レディ」だったか、とにかく大人の女性は食事中に鼻をかんだりしないものだ、かみたかったら化粧室に行きなさい、と私を窘めた。私はいまでも人前で鼻をかむけれども、その度に原先生のお叱りを思い出す。

その日、私は新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』の上巻を持参していて、原先生にサインをいただいた。後年、母が読みたいというので貸したら、雨の日に濡らしたようで、カバーはなくなり、茶色の大きなシミが扉ページにできてしまった。でも、原先生の「堀香織様 一九九一年十一月 原卓也」という味のある字自体は、滲まずに残っている。このサインを見るたび、なぜ母を原先生との食事に誘わなかったのか、せめて母宛てのサインをもらわらなかったのか、ひどく後悔する。

食事の翌月、1991年12月にソ連は崩壊した。ニュース映像でレーニン像が引きずり倒されるのを見た母は、「社会主義ってやっぱりダメなんだ〜」と本気で涙を流していた。「お母さん、あなたの住む日本は資本主義国家ですよ」と茶化したけれど、「時代が時代ならロシアに亡命したかった」と思っていた母にとってはある種の夢の国だったわけだから、「崩壊」の二文字はあまりに衝撃だったのかもしれない。

2004年12月、私は電子書籍の会社で編集者として働いていた。メルマガ執筆も担当していて、そのメルマガでロシア文学のなんだったか、とにかく小説を紹介する流れになり、原先生のことを思い出した。

「そうだ、連絡をとって、久しぶりに会おう!」

私は会いたいと思ったら、何年ぶりでも何十年ぶりでも、過去に1回しか会ったことのない人でも、とりあえず連絡をとってしまう(相手が嫌がるかもしれないということは、とりあえず考えない)。それで原先生の消息を調べたら、ほんの2カ月前に亡くなられていた。いまなら母と原先生をレストランに招待してご馳走だってできるのに、前回できなかったことを挽回できるチャンスだったのに、と、またも悔やんだ。

私と母の最後の海外旅行は、ロシアである。

2013年7月に私が広告制作プロダクションをやめたとき、母は「あんた、まだ働かないでしょ。一緒に旅行に行こうよ」と私を誘った。最初はチェコの予定だったが、母が「やっぱりロシアに行きたい」と言い出し、翌月の10日間のツアーに申し込んでくれた。

フリーの添乗員は50半ばの女性で、すごく面倒見がよく、本当においしい店を知っていた。旅も終盤になったころ、その添乗員と若い男性と母と私の4人で席に座ることになった。

添乗員は私を見て「堀さん、あなた、えらいわねえ。お母さんを旅行に連れてくるなんて」と微笑んだ。「いや、実は母が2人分の旅費を出して、私を連れてきてくれたんです」と恥ずかしながら正直に打ち明けると、彼女は微笑みを引っ込め、「えっ?いい大人がそんなんじゃダメでしょ! もう親を連れてくる年齢ですよ!」と私を叱った(笑)。自分の分くらい払うといったのを「あんた、会社やめてお金ないでしょ」と断ったのは母だったのだが、その母は隣で愉快そうに「そーだそーだ」と笑っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?