【聖織田信長信仰】「ぎふ信長まつり」坂口安吾原作「信長」のTBS時代劇以来!「木村拓哉」登場(岐阜と信長の縁とは?)
マスメディアに見る「聖織田信長信仰」
黒澤明監督作品「影武者」-信長はアーメン
織田信長を「信仰心理描写」としてキャラクター形成をしていることが理解しやすい。
黒澤明は凡庸の極みである「崇拝心理描写」ではなく、「信仰心理描写」を解する真の才能を持った芸術映画監督であったのです。
※角川春樹は見事にこの全て反対であろう。
イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。
2022「信長祭り」開催記念
木村拓哉が演じる織田信長は坂口安吾「信長」TBSドラマ以来であった。
織田信長の「演劇作品」と「信長演技」についての文化私観
織田信長の演劇作品は今まで様々あったと記憶している。
様々な役者が信長役を演じて世の話題となってきている。
しかし私は信長役の演技に最も必要なのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であろうと見做している。
そしてその演技を可能とする資質は当然の如く「信仰」を解す資質にあるということです。
何故なら「信長」という存在は「信仰を入れる場所」を確保した「虚け者」だったからです。
崇拝関係とは知(doxa)の鵜呑みとしてある。
そこから絶対服従と絶対命令を形成する。
しかし信長は知(doxa)の廃棄によって「信仰」を至上として生きた人物であろう。
そういう意味で彼は若い時から「虚け者」と呼ばれた若大将だった。
この話は坂口安吾の「信長」に記されている。
「虚け者」とは「信仰」を至上とした生き様である。
そして「信長」が殲滅するために死闘を繰り広げた「一向宗」は「知を鵜呑み」であり崇拝から盲目的に絶対命令と絶対服従を形成する劣等なサブカルチャーであったのだ。
それは一向宗徒が旗印とした阿弥陀如来のことである。
左は信長の「天下布武」でありメシア信仰(釈迦如来仏)の印、その右から一向宗徒の旗印「阿弥陀如来」でありメシア崇拝(阿弥陀如来)である。
メシア信仰(釈迦如来仏)は知(doxa)の廃棄から信仰を入れる場所を確保する。
それは叡智の受肉と最高善の奇跡を可能とする。
人を真に救済する。
しかしメシア崇拝(阿弥陀如来)は知(doxa)の鵜呑みから絶対命令と絶対服従を形成する。
しかしその崇拝関係は八百長があからさまになるだろう。
ただ知(doxa)の鵜呑みを迫るだけで一切の説明責任を果たさないからだ。
その時に崇拝関係は死の崇拝への暴走を命じる。
それが一向宗徒のあり方であり超危険なカルト集団だった証明となる。
メシア崇拝(阿弥陀如来)は死神だったのです。
仏陀が「信仰」であるなら、阿弥陀如来は「信仰に見せる技術」である。
阿弥陀如来の『信仰に見せる技術』は「崇拝関係」で形成されたカルト集団のことを言う。
信長が殲滅を謀った一向宗徒とは超危険なカルト集団だったと見做せる。
信長が仏教徒を殺戮したサタンとする認識はアベコベであろう。
一向宗徒こそ超危険な地下鉄サリン部隊だったのだ。
それは最高善信仰を弾圧するゴリアテ(黒ミサカルト)であった。
そして最高善の神への冒涜と嘲笑は反逆(ジャイアント・キリング)としてあった。
そのような最高善の神への反逆は堕天使ルシフェル(サタン崇拝)である。
信長(ダビデ)と一向宗徒(ゴリアテ)の聖戦であった。
ダビデ信長はゴリアテの首を切り落としてとどめを刺す。
サタン崇拝を滅ぼすメシアとしての信長の在り方
マルキ・ド・サドの代表作「悪徳の栄え」は「美徳は美徳、悪徳は悪徳」を示している。
それはマルキ・ド・サドが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であることの証明となる。
しかしサタン崇拝は「悪徳は美徳、美徳は悪徳」というすべて反対になる世界観を示している。
そのような「神の王国の到来」への明らかな反逆(ジャイアント・キリング)は堕天使ルシフェルのサタン崇拝であるのだ。
信長が「魔王」というのは明らかに間違いである。
信長は「魔王」のようなサタン崇拝ではなくマルキ・ド・サドの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」となるからだ。
例えば木下藤吉郎が信長から「猿」と呼ばれたという逸話は「猿は人間、人間は猿」という堕天使ルシフェルのサタン崇拝を示しているだろう。
この明らかなアベコベは何らかの「聖痕の徴」の痕跡だろうと思われる。
何故なら信長なら「猿は猿、人間は人間」とするだろうからだ。
信長は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を至上とする筈です。
それが意図的に改変されているのは如何なることを指し示しているのか?
それは木下藤吉郎こそが「三人の魔女(マクベス)」の存在であったのです。
木下藤吉郎こそが最高善の神への反逆者(ジャイアント・キリング)であったことを示している。
そして木下藤吉郎とは如何なる人物であったのかは実際には不明なのである。
実は謎の人物なのだ。
この反逆(ジャイアント・キリング)には意図的な改変の痕跡が見られるのです。
「安土桃山時代」という一括りにされた日本歴史史上の最重要時代が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と堕天使ルシフェル(サタン崇拝)に綺麗に差別化できることが証明されるだろう。
それは「神の王国の到来」と最高善の神への反逆(ジャイアント・キリング)の黒ミサカルトの決定的な違いとなる。
一神教と多神教の違いと言えるのだろう。
一神教と多神教-フロイト「人間モーゼと一神教」
信長は一神教の信仰者だった。
彼が自分を最高神として崇めたという事はあり得ない。
何故なら「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は最高善の神への純愛信仰(エロス)としてあるからだ。
何故なら多神教は〈呪術崇拝から形成される象徴(偶像崇拝)〉であり個人崇拝のデマゴーグで扇動する。
崇拝関係による絶対命令と絶対服従の形成である。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧する反逆(ジャイアント・キリング)でしかない。
坪内逍遥翻訳「マクベス」
堕天使ルシフェルのサタン崇拝のアベコベを明確に指摘している。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)への反逆(ジャイアント・キリング)である。
福田恆存翻訳同部分1
福田恆存翻訳同部分2
メシア信長を殺したサタン崇拝のマクベス木下藤吉郎はバーナムの森がダンシネインの城へ向かって動き滅ぶことになる。
「女に産み落とされた男」ではなく「帝王切開」だった。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が最高善の神のペルソナでありそれが「役」となる。
シェイクスピアの劇はそのような役者の劇であるのだ。
「信長」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)について
神とことば
神とカトリックロゴス感覚(Holy Communion)
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「知の鵜呑み」ではなく「知の廃棄」によっている。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の入れる場所を確保するためである。
其処のことが記されたイマヌエル・カント「純粋理性批判」の「第二版序文」が存在する。
最重要部分である。
だから私は、信に場所をえさせるために知を廃棄しなければならなかった。
信仰に席をあたえるために、知識を廃棄しなければならなかった。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉は神のパンを得ることであり永遠の命である。
私は、天から降った、活けるパンである。人がこのパンを食べるなら、永遠に生きることとなる。
信長は神の王国の住人
イエスの如く
信長が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」で生きているのに対して最高善の神への反逆者(ジャイアント・キリング)である一向宗徒はサタン崇拝で生きている。
信長が神の王国の住人であり「永遠の命(パン)」を受肉した存在であるに対して一向宗徒は最高善の神への反逆(ジャイアント・キリング)であった。
これは「信長」の政策である「楽市楽座」や「天下布武」が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によっていることから明らかだろう。
この言葉を読めばカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「叡智」の受肉によっていることが理解される。
下剋上を目指したのは一向宗徒の反逆(ジャイアント・キリング)の方だったのです。
私の幼少時代
私は名古屋市守山区小幡小林で幼少の頃育った。
其処の辺りは「信長」の縁の場所だった。
坂口安吾の「信長」に出てくる「竜泉寺」や同じく「織田信長」に出てくる「竜巻き池」でもよく遊んだものだった。
そして今回の木村拓哉が演じる「信長」とは「岐阜」の名付け親であるが故に「縁」がある。
では「岐阜」の名とは一体なんなのだろうか?
中国の故事から『岐山』、『岐陽』、『曲阜』より信長が「岐阜」と名を改めて創ったと言われている。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉した叡智として名付けられたと考えられる。
「古代中国の周の文王は岐山の麓から起こり、中国の天下統一を成し遂げた」という故事から取り、岐阜の阜は、孔子が生まれた「曲阜」という地名から一字を取ったという。
孔子による善政のイマーゴ(真善美の回復)が「岐阜」の名の由来である。
孔子による善政を目指した名前が「岐阜」であったのだ。
そして「天下布武、楽市楽座」などがその善政の政策とされたのだ。
織田信長は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」への反逆(ジャイアント・キリング)として力を持った末法思想(サタン崇拝)を滅ぼすことを目指した。
それは「信長」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」からあり得た。
そして「信長」の善政はメシア信長として行われたと考えられる。
彼は聖戦を戦い、そして善政を布いていった。
それはメシア信長とセイントたちによって行われた世界救済(イマーゴ)だった。
彼らは武士というよりセイントだったのだ。
私は「本能寺の変」の存在に疑問を持つ。
少なくとも当時の最精鋭部隊(鉄砲組)を「メシア信長」から一任されて最も信頼されていた筈のセイント明智光秀がメシア織田信長を裏切ったとは考えられない。
それに徳川家康の接待の粗相によって人前でセイント明智光秀をメシア信長が罵倒したという逸話の信憑性には甚だ疑問がある。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を受肉したメシア信長としてはあり得ない行いである。
この事実の歪さは逆に完全に史実を改変した痕跡と見做されるだろう。
それは最高善の神の歴史への反逆(ジャイアント・キリング)である。
自虐史観と言う者がある。
しかし一体誰の主観にとって自虐であるのだろうか?
歴史信仰は国家の基本であり正統な歴史のない国家は「国家の体」を成していないと見做される。
正統とは「勝てば官軍負ければ賊軍」を意味してはいない。
それでは官軍となった支配者が自由に最高善の神の歴史を改変できてしまうだろう。
それは最高善の神への反逆(ジャイアント・キリング)を意味しているに過ぎない。
最高善の神の歴史(聖書)とは神の下にあるのだ。
それは最高善の神の歴史が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によっていると見做せる。
「信長」の「聖痕の徴」が各地にあるのは事実である。
真の歴史(聖書)はどうだったのだろうか?
それは最高善の神の歴史でありメシア信長の「聖書(メシアの聖痕)」となるのだ。
「時の徴(しるし)」は最高善の神の歴史(聖書)でありメシア信長の証明である。
最後に映画について一言
脚本・古沢良太×監督・大友啓史
駄目だなって思うのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を映画で撮っていないことが明らかだからです。
才能を感じない。
才能に見せる技術ばかりが長けた連中である。
派手な演出は暴走演出と言われる。
神演出と持て囃され米津玄師のようにスターが生まれている。
しかしそれは演出ではなく演出に見せる技術であり、過剰演出(暴走)を神演出としているだけである。
彼らはスターではなくスターに見せる技術に長けているのです。
このような転倒は信長の存在に顕著に伺われます。
反逆者(ジャイアント・キリング)という存在の価値転倒が露骨に行われているのが「織田信長事件」である。
信長は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在だった。
そのために最高善の神への反逆(ジャイアント・キリング)と戦うメシアとなったのだ。
信長のイマーゴ(真善美の回復)は「神の王国の到来」であり、「楽市楽座」や「天下布武」はそのイマーゴ(真善美の回復)としてあった政策である。
この映画は信長を只の覇者として描いている馬鹿げた作品である。
何故制作したのか理解できない愚作だ。
信仰を弾圧するための政治的宣伝コンテンツだろう。
この後公開される北野武監督最新作「首」も同様に信仰を弾圧するための政治的宣伝コンテンツだ。
アホの北野武である!
あのように「本能寺の変」の陰謀を描くことは容易い。
そしてある意味非常に凡庸な作品である。
オレオレ詐欺グループの内情を描いた作品と同レベルである。
聖織田信長信仰を弾圧するだけの狂信者である。
カルト狂信者の北野武であり価値のない北野武監督作品郡であったのだ。
彼らはスタイリシュにカッコつけて自分に才能があるとアピールし、その様なアホな制作陣がこんな「粗大ゴミ映画」を大銭かけて生んだに過ぎない。
「脚本」にしても「監督の演出」にしてもオタク作品(崇拝心理描写)のクリエーターに過ぎない。
彼らの過去の作品をウィキペディアで確認し記憶から吟味してみたがどれも酷い作品だった。
お笑いコントの台本程度である。
それは崇拝心理描写であって信仰心理描写ではない。
それはスカトロジストを意味する。
彼らは人糞愛好家なのだ!
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」ではなくオタク(崇拝心理描写)を「芸」としている詐欺にすぎない。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」への反逆(ジャイアント・キリング)を「芸」だと主張する。
彼ら「芸人」はマクベスの三人の魔女でありゴリアテであり最高善の神の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」への悪意(ジャイアント・キリング)でしかない。
「学芸」とはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉としてあり、オタク(崇拝心理描写)は信仰の受肉に対する悪意(ジャイアント・キリング)の「詐術」にすぎない。
この映画は最高善の神との関係としてある「最高善の神のペルソナ」の「演劇」とはなっていない。
「芸の才能」の欠片もないのだ。
実は北野武は才能がなかったのだ!
信仰心理描写は理解できずすべて崇拝心理描写で映画を制作している。
北野武はクズだよ!
彼らは「詐術」だけであるのだ。
黒澤明にしても宮崎駿にしても彼らには「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」がある。
それは「芸術(叡智)」であり「信長」と同じ「虚け者」を示している。
それはイマヌエル・カントの「知の廃棄」でありソクラテスの「無知の知」であるのだ。
しかしこの織田信長の映画は「虚け者」がいないのだ。
糞映画である。
駄目だこりゃ!
TBSドラマに関してはどうだろうか?
信長の「虚け者」について描いている。
それは原作が坂口安吾の「信長」であるからだ。
それは最高善の神のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛信仰(エロス)だと見做せるだろう。
坂口安吾は信長の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を最も指摘した作家である。
彼は多分正解だろう。
「虚け者」とは信仰を入れる場所を確保したカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉者である。
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