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【カトリック信仰】毎日新聞東京本社パレスサイドビルに導かれた人生案内


永遠の命

毎日新聞社とは「信仰」の新聞社であろう
そしてそれはイマーゴ(神の似姿)への信仰と呼ばれる

毎日新聞社パレスサイドビル写真集
撮影 Soma Oishi

穢れに関する論争(マタイ 一五 1-20)

そのあと、〔幾人かの〕ファリサイ人たちと律法学者たちとが、エルサレムからイエスのところにやって来て言う、「なぜお前の弟子たちは父祖たちの言い伝えを破るのか。彼らは、パンを食べるときに〔自分たちの〕手を洗わないではないか」。すると彼は答えて彼らに言った、「お前たちこそ、なぜお前たちの言い伝えで神の掟を破るのか。というのは、神は父と母を敬えと言い、父や母を呪うものは必ず死ぬべしと言われたにもかかわらず、お前たちは〔次のようなことを〕言っている、『父や母に対し、「あなたが差し上げるはずだったものは、供え物〔となります〕と言う者は、その父を敬う〔必要が〕ないであろう』、と。こうしてお前たちは、お前たちの言い伝えで神の言葉を台無しにしてしまった。偽善者どもよ、お前たちについて、イザヤはみごとにも預言して〔次のように〕言った、

この民は唇で私を敬うが、
その心は私からはるかに隔たっている。
彼らは私をいたずらに敬うが〔に過ぎない〕、
人間たちの〔さまざまな〕戒めを〔しょうこりもなく〕教えとして教えながら」。


そして群衆を呼び寄せ、彼らに言った、「聞け、そして悟れ。口の中に入って来るものは、人間を穢さない。むしろその口から出ていくもの、それこそが、その人間を穢すのだ」。
そのあと、弟子たちがやって来て彼に言う、「ファリサイ人たちが〔今の〕御言葉を聞いて躓いたのをご存じですか」。すると彼は答えて言った、「天の私の父が植えられたのではない植物はすべて、根こそぎにされるであろう。彼らをそのままにしておくがよい。彼らは[盲人〔を導く〕]盲目の道案内どもだ。しかし、もし盲人が盲人の道案内をするなら、両者とも溝に落ち込んでしまうであろう」。

するとぺトロが答えて彼に言った、「[この]譬を私たちに解釈してください」。すると彼は言った、「あなたたちも、悟りがないままなのか。すべて外から口の中に入って来るものは、腹の中に入って行き、便所へと出されてしまうことがわからないのか。しかし、口から出てくる〔もろもろの〕ものは、心の中から出て来る。それこそがその人間を穢すのだ。なぜならば、心の中からこそ、悪しき想い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、瀆言が出て来る。これらのものが、その人間を穢すものである。しかし、洗わない手で食べることがその人間を穢すことはない。

岩波書店「新約聖書 マタイによる福音書」

理想的の旅人への導き

実は学問の真の意味を解し、一定の方針を立てて読書する人だけが、之によって生涯を正しく導き得ると同じ様に、この旅行といふものの意味をよく知つて、短い一日二日の旅行でも心を留めて見てあるく人が、時即ち人生を一番良く使った理想的の旅人といふことになるのである。

柳田国男
人を知る為に


 そんなら以前はそれ程面倒であり又厄介であった旅行に、或いは好き好んで一生の半分を費やし、又は旅をすればする程、次第に旅行ずきになる人が中々多かったのはどうしたわけか。是は社会心理学という学問で、是から後研究せらるべき面白い問題の一つである。早い話が鳥や獣はいつでも閑で、又一時もぢつとして居られぬものだが、ついぞ其の群を離れて一人で奮発して遠くへ行くといふことは無い。人の中でも野蛮人などといはれる者には、逐われて生命の危い時でも無いと、知らぬ人の中へ入って行こうとはせぬ。又盲や聾もあまり旅行をしない。其以外の人だけが、何かといふとよく出あるくのは、単純なる好奇心というよりも、今一層強い具体的の目的が、知らず識らずの中に誘うてゐるのではないか。即ち旅をすれば「人」を知るから、而うして「人」はいつでも我々にとって、興味深き題目であるから、うつかりと引付けられるのではなかろうか。

 我々は古くから此の漠然としたあるものを、世間と謂ひ、又は他人の中などと謂って居た。つまりは多くの場合には斯んな語に当たるものが、旅行をした時ばかりは特に我々とぶつっかるのである。魚が水に居り人が空気の中に住んで、水空気に馴れて感ぜぬ如く、生まれたときから周囲の人ばかりと接して居ては何とも思わなかったものが、一旦其間から抜け出して振返り、或は前と後とを比較して見る時に、始めて少しづつ自分と周囲との関係が分かって来る。是が所謂旅をさせよの意味であったと思ふ。子供が始めて学校へ行き出した時、又は久しく来ぬ叔父叔母などが尋ねて来た時に抱く所の感じを、稍拡大したものが旅行であって、結局は字が読めるようになると本を開いて見たくなり、本が沢山あれば其中の一番面白さうなものを先づ手に取るのと、おなじような心持から起る人の行為であろうと思う。

 もしそうだとすれば若いうちによく考へて見なければならぬ。無闇にやたらに何でもかでも、そこらにある本を読み散らして居ても,それ相応には役に立つかも知らぬが、実は学問の真の意味を解し、一定の方針を立てて読書する人だけが、之によって生涯を正しく導き得ると同じ様に、この旅行といふものの意味をよく知つて、短い一日二日の旅行でも心を留めて見てあるく人が、時即ち人生を一番良く使った理想的の旅人といふことになるのである。

 但し私の今日の話は諸君を旅行ずきにして見たいといふ考からでは無い。寧ろ之とは反対に、書籍は図書館か友人の蔵書家か、又は本屋のある町まで行かぬとどうしても手に入らぬが、旅行の方は其目的とする人間研究には、必ずしもそれだけの手数は要しない。我々の心掛け又人に対する態度如何によっては、今まで見馴れ住馴れて居る最も狭い周囲に於てすらも、同じだけの興味と教訓が得られる。それ程に材料が手近に完備して居るのだから、必ずしも旅行に由らざれば得られぬものではないといふこと、今一つにはそれだけの用意も無く又経験も無い人々の旅行が徒に萍草の如き軽くして根の無いもの、生活とは縁の薄い誠に不経済な辛労に終るかも知れぬことを、少しばかり説いて見たいのである。私のような境遇の者には非常に無理な都合をして十日とか、わざわざ遠くまで出かけ漸く得られるような大切な智識が、諸君ならば至って手軽に、たとえば泉から清水を汲む如く自由自在に求め得られるのだといふことを、篤と諸君の為に説いて見たいと思うふのである。

筑摩書房「柳田国男全集」より
柳田国男「人を知る為に」
時即ち人生を一番よく使った理想的の旅人

柳田國男はここに「読書」と「旅」について語っている。
毎日新聞社パレスサイドビル人生案内を解した私は柳田國男のこの部分を思い出し感銘を新たにしたのです。
毎日新聞社とは「信仰」の新聞社であろうと感じた。
それは理想の存在であるのです。

イマーゴ(神の似姿)への信仰

imago Dei 〔L.〕
神の似姿〔カトリック教会〕
〈91学術・キリスト教〉

『人文社会37万語対訳大辞典』 日外アソシエーツ

原は1873年(明治6年)4月に受洗したカトリック教徒であり、戦前期の歴代首相の中では唯一のキリスト教徒であった[注釈 3]。ただし、生前の原は自身の信仰について語ることはほとんどなかった。2005年には遺品の一つに刃を閉じると柄の部分に十字架が浮かび上がるハサミがあったことが確認されている[176]

「原敬」ウィキペディア

※原敬はカトリック教徒だった。

毎日新聞CMと筆者が撮影したパレスサイドビル写真集

のんちゃん可愛い(可愛いは正義)

毎日新聞社の社旗
毎日新聞社と名がある。
毎日新聞社のエントランス(毎日新聞社専用と言うわけではない。)
パレスサイドビルディングの総合エントランス
このビルは複合商業ビルであり毎日新聞東京本社以外にも多数の会社が雑居している。
パレスサイドビルディング階段と総合受付

何故今、毎日新聞社か?

毎日新聞東京本社パレスサイドビルが名建築物であると私が知ったのは一九九三年(平成五年)辺りだっただろう。
私は千葉県立船橋旭高等学校卒業後三年浪人して東中野にある東京工科専門学校建築科二年制に通学していた時だった。
当時その専門学校の校舎は酷くボロボロの建物であり建築科の担任だった先生はここは以前ラブホテルだったとウソかホントか分からないような発言をしていた。
専門学校二年時に建て替えのために中野駅近辺の商業ビルが仮設校舎となった。
今東中野に建設されている白い立派な高層建築に私は通学したことがない。

ただ一年時の東中野は穢いオンボロ校舎であったけれど図書室には建築の専門書が豊富にあった。
それは日本語で書かれているものもあれば外国語で書かれているものもあった。
なかなか建築書を洋書で読むのは難しかった。
私はそういった洋書の写真や図面をぱらぱら眺めていたのです。

私は高校の入学当初帰宅部であった。
所謂部活に無所属であったのです。
しかし高校二年時に何故か英会話部に入部する気になった。

卒業時に頂いた英会話部のレター

その時クラスの同級生が一人ストーカーのようについてきて一緒に入部することになった。
しかし英会話部の卒業アルバムの写真に彼の姿はない。

彼は途中からこの船橋旭高校に転入してきた学生であった。
そして当時テレビで盛んに放送されていた中華人民共和国列車事故の進学校とは彼が転入以前に在校していた高校だったのです。
彼によると同級生の知人がこの事故で複数人死んだらしい。
そして彼はクリスチャンであると告白していた。
クリスチャンとはキリスト教徒を指すがカトリック信仰というよりプロテスタント系のキリスト教信者を指す場合が多い。

私自身は正式な洗礼は受けていないけれどカトリック信仰を持っていると感じていた。

私は彼の人間性と彼の宗教を知ってあまり好感を抱いていなかった。
何故ならば彼の差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)は結構酷かったからです。
それは他の学生も同様であったけれど彼が行う差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)は結構陰湿だった。
それは彼に典型的な悪質さがあったからです。
典型的な悪質さとは他者へ差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)の責任を転嫁するところだった。
彼自身が行う差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)を他者へ責任転嫁して行くのでした。
そして自分自身は無垢で無辜であると主張する。
「そんなバカな!」
ワザワザ自分自身で率先して差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)をしておきながら他者の責任にする。
そして自分自身は無垢で無辜だと主張する。
だったら彼自身が差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)を敢えてする理由がわからないのです。
だったらそんなバカな行為はしなければいいだろう!
もし差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)がしたいなら自分の責任でやれ!
それこそ正当な自己責任論だ!
彼は他者をそして特に私をバカにしきっていた!
カトリック信仰に対する強烈な嫌がらせだろう!
惚けて嫌がらせを続けるタイプの男だった。
高々高知県の進学校如きで人をバカにするな!
クズ!

馴れ馴れしくフレンドリーだった。
しかしフレンドではなかった。

あなたはフレンドの概念を知っていますか?

friend [frénd]

[中期英語 friend,frend,古期英語 frēond 友,恋人,親族〔もとは frēogan(⇀FREE)の現在分詞;ゴート語 frijōn「愛する」と同語源〕;ドイツ語 Freund と同語源]

friend [frénd]〓
―n.
1 (親しい)友,友人,友達,仲よし;知人:〓
2 (…の)後援者,支持者;同調者,共鳴者,シンパ⦅of,to ...⦆;(計画などの)推進者⦅of ...⦆;⦅friends⦆ (会の名などで)…友の会,…(の環境など)を守る会;(学校・施設などの)後援者の会,義援団体:〓
3 味方(↔enemy):〓
4 国[党派など]を同じくする人,同国人,同胞,同志;盟友,仲間,同僚.
5 役立つ[助けとなる]もの,頼みの綱:〓
6 ⦅F―⦆ フレンド派(the Society of Friends)の人,クエーカー教徒(Quaker).
▶教徒間の呼びかけに用いる:〓
7 ⦅呼びかけや人を引き合いに出すときに用いて⦆ (わが)友,君(きみ),人(▶軽蔑(けいべつ)的・皮肉に用いることもある);⦅friends⦆ 皆さん:〓
8 ⦅friends⦆ ⦅主にスコット⦆ (保証人になり得る)近親,親戚(しんせき),親族,身内(kinsman).
9 愛人;情人.
▶男女どちらにも用いる.
10 (お気に入りの)デートの相手;ボーイフレンド,ガールフレンド.
11 やっかいな[迷惑な]知り合い.
12 たまたま出会った人;御仁.
13 (また little friend)⦅俗・方言⦆ 月経(period).
―v.t.
1 ⦅まれ⦆ 〈困っている人の〉友人として行動する,…に味方[助力]する,…を助ける;⦅廃⦆ …の友人になる.
2 ⦅friend it で⦆ 友達のように振る舞う.
[中期英語 friend,frend,古期英語 frēond 友,恋人,親族〔もとは frēogan(⇀FREE)の現在分詞;ゴート語 frijōn「愛する」と同語源〕;ドイツ語 Freund と同語源]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

ゆうじんかんけい【友人関係】
friendship relation
人間が生れて初めて非親族者と結ぶ,比較的近い年齢の者同士の⇨社会関係。ここでは家族と異なり,年齢が近いため遊びのなかで対等な人間関係のあり方や⇨社会性を身につけていくことができる。集団特性からみて,友人関係を遊戯集団(仲間集団,ピアグループ),クリーク(派閥),⇨ギャングに大別する研究者もいるが,いずれにおいても児童の社会的,心理的発達,人格形成のうえに欠かせないものである。また社会構造の高度化に伴って,インフォーマルな人間集団としての友人関係は成人にとっても大きな意味をもつようになってきている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

彼は私に何故そこまで執拗に因縁を付けてきたのだろうか?

彼の悪質さはフレンドの概念へ露骨に「黒ミサの儀式」を行ったところだと見做せる。
悪意ある存在の肯定を「ヲタ芸」として祀ったのです。
それは最悪の友人(堕天使ルシフェル召喚)だったのです。
フレンドの語源は「愛する」である。
「悪意」を「愛する」と見做し「友人」とすることは「黒ミサの儀式」のあり方です。
彼らは「友人(愛する)」へ一々敵対し「黒ミサ」を行ったのです。

特に彼はカトリック信仰へ一々敵対するヤンキー(地域的エリート感覚)だったのだ。
そして多分クリスチャン(プロテスタント系)だろう。
だから「友人(愛する)」へ「黒ミサの儀式」を決行するのです。
如何にも高知県のバカがしそうなことだと思った!

彼は私に付き纏いながら私に対して典型的な悪質さを責任転嫁していった。
悪質なストーカーだった。
カトリック信仰に対するプロテスタント系の典型的な嫌がらせだったのです。

ただ彼とはラグビーの大学選手権(一九八九年)を正月休みに観戦へ行ったことをよく覚えている。
彼がラグビーをその進学校でやっていたと主張していたからです。

私は父が早稲田大学の文学部卒業だったことから早稲田大学ラグビー部の試合を父親と一緒に幼少時何度か観戦したことがあった。
今でも思い出すのが早稲田大学の本城和彦がキックを外しまくって観客の一人が「帰ったら練習だ!」と叫んでいたことが印象深かった。
また別の試合の国立競技場の帰りに瀬古利彦が神宮外苑周辺をランニングしていた。
「瀬古だ!」と周囲から歓声が上がったのです。
当時マラソンで早稲田大学の瀬古利彦の人気は非常に高かった。
ただ人気というのはカトリック信仰へ一々敵対する存在を祀る「ヲタ芸」であり「堕天使ルシフェル召喚」と同じだろうと思う。
早稲田大学の瀬古利彦と早稲田大学の村上春樹という早稲田大学の人気ランニングマンがいたということだ。
そして人気とは「ヲタ芸」であった。

私は彼との会話の成り行きで国立競技場で行われるラグビー大学選手権の観戦へ行くことになった。

その時の私は東京国立競技場でこのような発言をしたことを覚えている。
私は「美智子様が失語症になっているらしい。」と発言した。
当時皇太子妃美智子様の失語症についてマスコミ報道がなされていた。

そういった中で昭和天皇は崩御されそれによりラグビー大学選手権決勝も延期されたのです。
ただ私達が観戦した試合が正月のどの試合だったか実はあまり記憶していない。
多分単純に決勝だろうと思うが天皇崩御のため延期されていたと聞いて違っていたかもしれないと不安になった。

ただその時、彼は私の発言に対してこのように返答した。
「美智子様は頭がおかしい。キチガイだよ!」
彼は私に調子を合わせたように言い出したのです。
ここに彼の嫌らしい人間性を垣間見ることができます。
私自身は決して美智子様が「頭がおかしい。キチガイだ!」だと言いたかった訳ではなかったのです。
心労で失語症になられた方に対して同情を感じていたのです。
何故ならば当時の私も陰湿な虐めで心労を患っていたからです。
しかし彼は惚けながら嫌らしく責任転嫁と立場の逆転を図っていくのです。
そして私へ悪意のストーキングをしながら差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)を続けて行くのでした。
彼は惚けて悪意を止めようとはしません。
「何故?」「どうして?」
それはこっちのセリフです。
彼は惚けながら悪意を続けるのです。
「陰湿な虐め」でした。

昭和天皇は崩御され平成元年となりました。
昭和六十四年のコインは希少価値があると言われ父親が何処からか貰ってきていました。

昭和六十四年度硬貨

そして一九八九年(昭和六十四年)は平成元年となったのです。
彼は差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)をやることで昭和の最後を終え平成の始めを飾っていきました。
しかしそれも私へ責任転嫁されていくのでしょう。
そういうあり方が私にとってとても心労になっていました。

あとクラスメイト数人で明治神宮に初詣に行ったことを思い出した。
それはいつだったか覚えていない。
一九八八年の大晦日だと思う。

しかし彼は冗談では済まないような発言を平気でしていた。
それは他の学生にも言えることではあったがただこれが「クリスチャン(キリスト教徒)」なのかと私は驚愕していた。
しかし彼が「プロテスタント」なら合点がいく。
何故ならカトリック信仰に一々敵対する存在を祀る「ヲタ芸」であるからです。
要は「詐術」を祀るカルトでしかないのです。
現代を支配しているカミオカンデ、量子力学、精神薬理学、経済学、『首』はこの典型です。

それらはカトリック信仰に対する陰湿な嫌がらせだったのだろう。
サタンの下僕です。

しかし彼は大学入試で筑波大学に現役で合格していた。
当時はまだバブル最盛期と言われていて有名大学卒業生は超売手市場だった。
彼の将来は約束されたと思われていた。
しかし彼がどうなったか私はもう知りません。
ただ高校卒業の数年後「紅の豚」を知人と千葉県の映画館で鑑賞していた時、前の席に偶然座っていた人物がそのクリスチャンの男子学生だった。
その時彼は女性とデート中だったらしい。
私はなんだか気まずい思いをしたことを強烈に覚えている。
「紅の豚」がそんな印象になってしまって嫌な気がしたのです。
気分が悪かったから映画鑑賞後に黙って立ち去った。

彼の同級生が多く死亡した中華人民共和国の列車事故に関して進学校の事件であったためマスメディアの扱いも大きかった。
又、高知県が豊臣方から徳川方へそして明治維新政府と上手く渡り歩いた特権階級の支配地域であることも影響しているのかもしれない。
そのためにエリートの卵の死として宣伝されていた。
そういったマスメディアの宣伝によってこの事件を現在でも記憶されている方は多くいらっしゃるだろう。
そしてここに毎日新聞の特集記事もありました。

拓殖大学在学中の王老師中国旅行団
第二外国語が中国語だったことで参加
明治大学、立教大学、山梨学院大学、拓殖大学、中国語教室など王老師が教鞭をとった学校による合同旅行団だった。
私はこの中国旅行団に複数回参加した。
写真上 「北京|洛陽|西安旅行」の寝台列車
写真中 洛陽の龍門石窟
写真下 「内モンゴル旅行」の寝台列車内
他に「上海|杭州|蘇州旅行」にも参加

ただ先程も指摘しましたがその転入生の人間性は明らかにおかしかった。
進学校から来て高慢だったからかもしれない。
他の学生にも言えることだが彼の発言にかなり「偽善」を感じていた。
「よく言うわ!」と言いたい発言が度々あった。
それはこういった感覚だった。
彼らは「友人(愛する)」ではなかった。
そして悪意を持っていながら「フレンドリー」であり「愛らしい」とされていた。
そのような偽の「友人(愛する)」の存在が「偽善」となって私を苦しめていた。
彼らは「悪意」なのに「善意」を装う「偽善者」だった。
だから私はその列車事故の話を聞いても複雑な感想を持っていた。
確かに同情に値する事件だった。
それは事故に遭われた被害者に対してであって彼にではなかった。

彼は差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)を続けながら自分自身は同情されるべきだと主張する立ち位置を絶えず確保していた。
しかしそれはただ図々しい行いだった。
そういった図々しい行いは人間関係で容認されていくのです。
そういったあり方が「カトリック信仰」へ一々敵対する「オタク」を祀る「ヲタ芸」であり「堕天使ルシフェル召喚」でした。
ただそういった人間関係の中で私は唯一性のカトリック信仰であったから彼らから一々敵対される格好の標的とされた訳です。
見せしめのような嫌がらせを受けることになりました。
陰湿な虐めの格好の標的とされたのです。
そういった陰湿な虐めが「ヲタ芸」のあり方です。
そして「堕天使ルシフェル召喚」は容認され「最悪の災が世に起こる凶兆」が見られるようになっていきます。

そんな中で中学校時代の同級生が紹介してくれた素敵な妹が自殺した事件がありました。
今でも彼女と出会った時を思い出します。
「鞦韆(ブランコ)」の思い出です。
その自殺事件は一九八九年十二月十八日(新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の翌日)にあった。
私は近くを同時刻通りかかっていました。
それは船橋グリーンハイツの交番前でありました。
いつもそこを八時一五分に通るのが高校への通学路でした。
私はその場所で同時刻何かを強烈に感じたことを今でも覚えています。
私は交番前で白い高層アパートメントを振り返り多分飛び降り自殺事件があっただろうことを察しました。
特に人が集まっている様子はありませんでした。
目視では遠すぎて何も確認できませんでした。
ただその場を支配する強烈な霊感を感じていたのです。
私は確認のためにその白い高層アパートメントへ行くか立ち止まって迷っていました。
しかし私はその遺体の確認をすることへ抵抗を感じていました。
何故ならば私は天啓(revelation)を感じていたからだろうと思います。
私はその直観に従った方がいいと思ったのです。
そして私は直観に従いました。
ただ当時自宅で購読していた朝日新聞で自殺記事をチェックしたのです。
朝日新聞の記事にだけ自殺者の実名報道がなされていました。
それにより船橋グリーンハイツの自殺者が誰だったのか容易く判明したのでした。
そして私はその自殺者が「友人(愛する)」だったことを知ったのです。
だから私にとってその自殺事件が単なる偶然と思えないものとなっていたのです。

何故、朝日新聞社だけ「実名報道」だったのだろうか?

ここに述べる感想は私の「ドクサ」の産物であってあまり大きくは言えないのですが・・・私へ伝えるためではなかったかと思いました。
しかしこの「ドクサ」はカトリックロゴスの根拠付けを持ったものであると感じました。
何故ならこの事件にはカトリック信仰が関わっているからです。
そして私はカトリック信仰の資質を持ち、彼女もカトリック信仰の資質を持っていた。
それはイマーゴを持っていたということです。
イマーゴとは「神の似姿」です。
それはイマーゴを否定するドクサではない。
「イマーゴ」(神の似姿)を持ったドクサと言えます。
そしてそういったイマーゴを持ったドクサは「霊感」となって顕現する。
それは「愛の形」です。

一九八九年十二月十九日(火曜日)
新聞休刊日十二月十七日(12月第3日曜日『1989年新設』)の二日後の朝日新聞千葉県欄朝刊

中2女生徒が飛び降り自殺 船橋、両親らに遺書

十八日午前八時一五分ごろ、船橋市緑台二丁目の船橋グリーンハイツの路上に、制服とコートを着た女子中学生が倒れているのを通りかかった人が見つけ、一一〇番通報した。船橋西署の調べで、同市緑台一丁目、会社員北原博州さん(四六)の長女で私立高根中二年の奈美さん(一四)とわかった。
十一階の非常階段踊り場に奈美さんのスクールバックが置いてあり、ここから約三十一メートル下の地面に飛び降り、自殺したらしい。即死状態だった。奈美さんはこの日の朝、母親に「学校へ行く」と言って出かけたという。
スクールバックの中には裁縫道具や筆入れのほかに、封筒に入った両親と友だち五人あての遺書二通が入っていた。便せんにえんぴつで書かれた遺書には、友だちについてのことがていねいな字で書いてあったという。奈美さんが通っていた高根中の高梨和宏校長は「活発な子だったと担任から聞いている。ソフトボール部に所属し、学級委員の書紀をしていた。十二日からかぜという理由で欠席しており、十五日には担任が家庭訪問をしたが、とくに変わった様子はなかったようです。」と話した。

一九八九年十二月一九日(火曜日) 朝刊千葉県欄 朝日新聞社
二〇二三年四月二十八日(金)
正午過ぎ 朝日新聞東京本社ビルを交差点歩道より撮影
二〇二三年四月二十八日(金)
正午過ぎ 朝日新聞東京本社の読者ルーム
白鳩の模型が飾ってあった。
下に見えるのは夏目漱石だろう。
二〇二三年四月二十八日(金)
正午過ぎ 朝日新聞東京本社のメインエントランス
二〇二三年四月二十八日(金)正午過ぎ 
朝日新聞東京本社の名と時計台

船橋グリーンハイツ再訪(二〇二三年)

二〇二三年撮影
船橋グリーンハイツ交番(私は当時高校通学中にいつもここの壁掛け時計を見て現在時間を確認していた。)
朝の通学では通常八時一五分から八時二〇分辺りにここを通過する。
船橋旭高校は船橋運動公園の先にあった。
そのため自殺時間とほぼ一致するのです。
交番は新しく建て替えられていました。
二〇二三年撮影
交番前から白い高層アパートメントを振り返るとこのような眺めになる。
ここから自殺現場を目視で確認することは不可能だろう。
二〇二三年撮影
新しい交番にも壁掛け時計は掛かっていた。
この時計は九時一四分を指している。
一九八八年時の文集
作者 大石宗磨

「とうこう」 大石宗磨
朝、目を覚ます。食事を簡単にすましテレビを見るとN局のドラマが始まっている。「もうこんな時間か」オレは急いで家を出る。すこし行くと派出所が見える。そこの時計を見るのがオレの習慣になっている。針は20分をさしている。「あと10分か」オレは足を速める。小学校を見ると寒そうに体操をやっている。オレは通行の激しい道を渡り小道に入る。気の多い道だ。そこには1軒のホテルがある。そこから車に乗った男女が出ていくのを何度が見たことがある。今はそんなことを考えている暇はない。その前の坂を登りまた下る。そして横にそれていくとテニスコートがある。その前にも坂がありその坂を登りきると競技場が広がっている。その脇の道を通り野球場を過ぎると目的地はすぐだ。「うっ」信号が赤になっている。おまけにバスも停まっている。オレは信号が青になるのを見はからうとバスから降りた者の間を縫って走る。靴をはきかえる。「キーン コーン カーン コーン」鐘がなっている。オレは鐘が鳴り終わると同時に部屋に入る。そして・・・・・「あ~よかった。」、この瞬間がたまらなく良い。

1987年度入学船橋旭高校一年終了時の文集(1988)より

※NHKの朝の連続テレビ小説は当時八時一五分開始でした。
※船橋旭高校の始業時間は当時八時三〇分でした。
※小学校は高根小学校
※船橋運動公園

二〇二三年撮影
自殺現場となった白い高層アパートメント
ここには「鞦韆(ブランコ)」が近くにある。
私は友人から彼の妹を紹介された。
その彼女と「鞦韆(ブランコ)」で遊んだ思い出がありました。

二つの鞦韆(ブランコ)

「鞦韆考」には「鞦韆の起源」がいくらか示されている。
そこには大きく分けて二つのあり方が見られます。

私の「タロットカード連想図」

ここにタロットカードの「6」(THE LOVERS)と「12」(THE HANGED MAN)と「15」(THE DEVIL)と「17」(THE STAR)と「20」(JUDGEMENT)と「21」(THE WORLD)を示したいと思います。私の「タロットカード連想図」

「THE LOVERS(恋人)」のカードは「純愛信仰」を示している。
一方で「バフォメットの異端教団」のカードは文鮮明「統一教会」の「合同結婚式」を想起させます。
このような「カルト教団の教祖|文鮮明」と「岸信介」の関係性も現代日本に大きな傷跡として残っているらしい。

「ラバーズ(恋人)」であるか?

ここにタロットカードの「6」(THE LOVERS)を示したいと思います。

「バフォメットの異端教団」であるか?

ここにタロットカードの「15」(THE DEVIL)を示したいと思います。

これは「純愛信仰」の存在証明となっているのです。

※キャーリーイエールヴィスコンティでは「悪魔」のカードが紛失しているとされる。又、他のヴィスコンティのカードでも同様に「悪魔」のカードが紛失しているとされる。私はヴィスコンティカードをすべて見ることができたら「ルネッサンスとヒューマニズム」(トーマの心臓)の理解は容易くなるだろうと感じている。

ヴィスコンティーカードの凄さ

一つ目の鞦韆(ブランコ)

一つ目は男女関係に於ける「性的関係」です。
数々の文学賞を受賞された「作家|高橋源一郎先生」が小学校時代の同窓会に出席され昔を回想するエッセーを読んだことがあります。
そこには或る女児が「ブランコ」を高く漕ぎあげていたことが大きく取り上げられていました。
高橋源一郎先生は「その女児がブランコを高く漕ぎあげてパンティーをワザと見せつけていた!」とイノセントに評しておりました。
こういったあり方は特に宮廷において「鞦韆」によりワザと下半身を強調することで「天子」に気に入られる機会を得るという逸話と同様のあり方です。
これは宮廷以外にもあり得たかもしれません。
「性具」の意味があった訳です。
しかしそれは「性的関係」でしかなく「女」と「男」の両者の「偶像崇拝」でしかないのです。
それは「女」と「男」の両者の「面子」を祀り上げただけの「ヲタ芸(cult)」となっています。
「面子」を祀り上げただけの「人間関係」であり「バフォメットの異端教団」と言えます。
日本流に言えば「風俗業」の商売です。
高橋源一郎先生はこれを「普遍性」とした訳です。
しかしそこに「黒ミサの儀式」の「逆転」があった訳なのです。
※高橋源一郎先生の「東京拘置所に於けるマスターベーション体験談」や川上未映子「乳と卵」はこのような偽の「普遍性」の代表選手です。

それは「逆転は正転」「正転は逆転」と為す「黒ミサの儀式」を司った「バフォメットの異端教団」と言えるのです。
「バフォメットの異端教団」が必ず陥ることになる「悪循環」は「循環論証」として表出し「特殊詐欺師」の「神演出」となります。
「神演出」は「ヲタ芸」(cult)によって形成されます。
それが彼らの作品です。

「面子」の中身とは何でしょうか?

「愛」はなく「邪悪」があるのです。
「神」に叛逆した「堕天使ルシフェル」の「邪悪さ」なのです。

二つ目の鞦韆(ブランコ)

二つ目は韓国で有名な「端午の節句」の「女児の遊び」の「鞦韆」です。
一般に「端午の節句」は「菖蒲」で「厄払い」をします。
又、そういった神聖なあり方は「ブランコ」を「天から吊るすこと」に似て「神との関係」を想起させます。

「天から吊るされた遊具」とは「ペルソナ」のあり方ではないでしょうか?

それは三位一体のペルソナです。
そういった「ペルソナ」は「神と人間の関係」に於いて「イマーゴ(神の似姿)への信仰」のあり方とされます。
だから神聖な「端午の節句」で「鞦韆」を遊ぶのでしょう。
この辺りの文化は「朝鮮半島」の南北国家の分断や文化的変遷もあり「鞦韆」を一概に言えるものではないかもしれません。
ただ原勝郎「鞦韆考」に「朝鮮」に於いて「端午の節句」で「鞦韆」を遊ぶとされています。

当然の如く「ペルソナ」の確立は「男女共」に存在する筈です。
このような「唯一性のペルソナの確立」は「カトリック信仰から形成されるオリジナル」であり「イマーゴ(神の似姿)への信仰」なのです。
それは「愛徳」とも言え、単に「愛」とも言えるものでしょう。
これは真の「普遍性」と言えカトリック信仰のあり方なのです。
これは「逆転」ではなく「正転」のあり方です。
「逆転は逆転」であり「正転は正転」なのです。
このようなカトリックロゴス感覚は「善き羊飼い」に導かれた「好循環」なのです。
それは「神の奇跡」を齎します。
※萩尾望都「トーマの心臓」はこのようなカトリック信仰の代表選手です。

「ペルソナ」の中身とは何でしょうか?

「愛」があるのです。
三位一体のペルソナのあり方と言えます。
それはメシア再来と言えます。

「ユング心理学は一つ目の鞦韆(ブランコ)」|「フロイト精神分析学は二つ目の鞦韆(ブランコ)」

ここにはユング心理学を一つ目の鞦韆(ブランコ)として、フロイト精神分析学を二つ目の鞦韆(ブランコ)として見做すことができる。

フロイト精神分析学は「三位一体のペルソナ」への導きを治療としている。
フロイト精神分析学に於いて寛解のイマーゴ(神の似姿)は「三位一体のペルソナ」とされている。

しかしユング心理学は面子を祀り上げる「ヲタ芸(cult)」を「社会適合性」としている。
そしてユング心理学はそのような「ヲタ芸(cult)」へ批判的な存在の方を治療対象にしているのです。
ユング心理学は「ヲタ芸(cult)」へ強制することを「社会適合性」への治療としている。
これはカトリック信仰へ一々敵対する偽の「社会適合性」となる。

これは男女関係にも言えることである。

文鮮明の統一教会はユング心理学の手法で合同結婚式を開催している。
それは男女の面子を祀り上げるだけの婚姻を取り仕切っているのです。

一方でフロイト精神分析学に於ける性的衝動はカトリック信仰(神との関係)と男女関係の在り方を想起させる。
それは真実の愛による婚姻と性的関係を意味している。

文鮮明は神を騙り男女関係を司っている。
しかしそこに真実の愛は存在しないだろう。
人間関係に於ける「ヲタ芸(cult)」によって男女の面子を祀り上げたあり方に過ぎない。
これは一つ目の鞦韆(ブランコ)と同じあり方を意味している。
それはタロットカード「悪魔」が意味する「バフォメットの偶像崇拝」なのです。

フロイト精神分析学は「純愛信仰」を回復させることを治療としている。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と言える。
二つ目の鞦韆(ブランコ)と同じようにカトリック信仰(神との関係)に於ける「三位一体のペルソナ」が持つ純愛信仰なのです。
それはタロットカード「恋人」が意味する「友人」(トーマの心臓)を示しています。

ここで言えることはカトリック信仰はこうあります。
「カトリック信仰はカトリック信仰」「バフォメット崇拝はバフォメット崇拝」

一方でバフォメット異端教団はこうあります。
「カトリック信仰はバフォメット崇拝」「バフォメット崇拝はカトリック信仰」

この違いが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と「統一教会の合同結婚式」の違いです。
この「カトリック」に対する逆転(転倒)が「バフォメット」が持つ象徴的なあり方なのです。

カトリック信仰の三対神徳(愛徳|望徳|信徳)

ここにタロットカードの「2」(THE HIGH PRIESTESS)と「5」(THE HIEROPHANT)と「17」(THE STAR)を示したいと思います。
カトリック神学|3対神徳「愛徳|望徳|信徳」を示す。
一九八九年十二月十九日(火曜日)
新聞休刊日十二月十七日(12月第3日曜日『1989年新設』)の二日後の毎日新聞千葉県欄朝刊
この激しい「炎」の写真は私が当時通学していた母校に近くしかも数日前の火災だった。
一九八九年十二月十九日(火曜日)
新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の二日後の毎日新聞千葉県欄朝刊

マンション屋上から飛び降り 船橋・女子中生自殺

十八日午前八時十五分ごろ、船橋市緑台(通称・船橋グリーンハイツ)二の十一階建てマンション北側のコンクリート通路上に、制服、コート姿の女子中学生が倒れて死んでいるのを、同ハイツ管理事務所の職員(七五)が見つけ、一一〇番通報した。
船橋西署の調べによると、この女子中学生は同市内の中学二年、A子さん(一四)。同マンション北側の非常階段を登った屋上にA子さんの紺色のスクールバックがあり、バックの中から両親と友人五人にあてた遺書二通がみつかった。遺書には友人関係についての悩みが記されており、同署はA子さんがこれを苦に屋上から三一・二メートル下の通路に飛び降り自殺したらしい。

一九八九年十二月一九日(火曜日) 朝刊千葉県欄 毎日新聞社

毎日新聞の記事を何回か読み直してみました。
何故ならば気になる箇所があったからです。
しかし私にはその謎解きが長い間出来なかった。
そしてもう一度今日考え直してみました。
今日が二〇二三年十二月一八日(月曜日)だからかもしれません。
気になる箇所とはこの記事の最後の一文です。

「遺書には友人関係についての悩みが記されており、同署はA子さんがこれを苦に屋上から三一・二メートル下の通路に飛び降り自殺したらしい。」

この最後の一文の接尾語「らしい」が奇異に感じます。
何度読み直してみてもこの接尾語「らしい」がしっくりこない。
毎日新聞はカトリックロゴスの根拠付けを記事のイマーゴ(神の似姿)としている。
だからここに示された言語使用にもカトリックロゴスの根拠付けが存在している筈です。
そう考えてみると接尾語「らしい」を丁寧に追っていくことが正解への早道だろうと思えました。

しかし何度考えてもこの一文の意味からはカトリックロゴスを見い出すことは出来なかったのです。
そこで私はこの一文への見方を少し変えてみました。

私は毎日新聞以外の記事も一通り読んでみたが事実内容は殆ど変わりませんでした。
ただ毎日新聞は敢えて最後の一文に接尾語「らしい」を使用したのです。
接尾語「らしい」を敢えて使用した事実に毎日新聞が示した何かがあると感じました。

辞書で接尾語「らしい」の意味も一通り検索しました。
しかしそれは基本的に「伝聞」と「推量」でしかなかったのです。

ただ必要もないのに人が敢えて接尾語「らしい」を言語使用する時とは一体どんな状況だろうか?

それは「額面通りの事実」と実際は違っている状況で人は敢えて接尾語「らしい」を使用するだろうと思った。

ではこの状況の「額面通りの事実」とは一体何だろうか?

新聞各社の事実内容の発表にそれほどの差異はなかった。
そうであるなら毎日新聞の記事の最後の一文に「額面通りの事実」があるだろうと判断されました。

「遺書には友人関係についての悩みが記されており、同署はA子さんがこれを苦に屋上から三一・二メートル下の通路に飛び降り自殺したらしい。」

この記事に示された「額面通りの事実」が実際には違っていることをきっと示しているのだろう。
私はその「額面通りの事実」は「自殺したらしい。」にあるだろうと感じました。
「自殺した」という「額面通りの事実」が実際には違っているらしい。

ただこの事件が「殺人事件」だと言いたい訳ではないのです。
それは学生の「いじめ自殺事件」にしてもどんなに陰惨であっても「殺人事件」と言うことが出来ないからです。
だから理由はどうあれ本人が自ら飛び降りた場合にそれを「殺人事件」とすることは出来ない。

では「自殺した」という「額面通りの事実」が実際は違っていると言う毎日新聞のメッセージ(マス・コミュニケーション)とは一体何を示しているのだろうか?

それはこの「飛び降り死亡事件」が「自殺事件」ではなかったと言う「事実」を示していると考えられるのです。

あなたは萩尾望都「トーマの心臓」をご存知だろうか?

萩尾望都「トーマの心臓」の作品の最初に起こった「転落死亡事件」は「事故」として処理された。
しかしその「事実」は「虚偽」であり実際は「失恋自殺」であったとしてストーリーは展開していく。
ただそのような「失恋自殺」も「額面通りの事実」でしかなく実際は「友人(愛する)」を永遠に救済するために行われた「愛の殉教」であったことが判明する。
そしてこの作品は「愛の殉教」と「愛の成就」と「愛による救済」の大傑作となった。
それが萩尾望都「トーマの心臓」のカトリックロゴス信仰だったのです。
そしてそれは「純愛信仰」であり「最愛信仰」であった。

私はこの記事にある死亡事件に萩尾望都「トーマの心臓」と同様のカトリックロゴスの根拠付けを感じたのです。
それは絶対に覆ることがない「純愛証明」(殉愛)だったと言えます。
それは生きていく上で最も必要なカトリックロゴスの根拠付けとなるのです。
そして私はラディカルに救済されたのです。

各社新聞記事に共通した数字は両親と5人の友人へ宛てた2通の遺書から得られる「2」と「5」でした。
そしてこの日に関連した特異な数字がありました。
1989年12月17日(安息日)は新聞休刊日だったのです。
18日事件当日の新聞社各紙の朝刊は全て無かったのです。
調べてみましたがこの日は新聞休刊日であった。
「12月第3日曜日『1989年新設』」が新聞休刊日とされていました。
私のイメージの新聞休刊日は12月18日(月曜日)となっていました。
しかしそれは「朝刊」の発行がないだけであって「夕刊」は発行されている。
実際はその前日が新聞休刊日となっている。
だからこの場合の新聞休刊日は17日(安息日)だった訳です。
ここから得られる特別な数字は新聞休刊日の「17」なのです。

では先程の数字と並べてみます。
「2」と「5」と「17」です。
これはタロットカードの「2」(THE HIGH PRIESTESS)と「5」(THE HIEROPHANT)と「17」(THE STAR)でありカトリック神学|3対神徳「愛徳|望徳|信徳」を示しています。
新聞記事がカトリックメッセージだったのだろうと思われるのです。
そしてもう一つの特異な数字「三一・二メートル下」の記述です。
これは「3」+「1」+「2」=「6」を見い起こします。
これはタロットカードの「6」(THE LOVERS)であり「純愛信仰」を示している。
それは「最愛信仰」です。

二〇二三年十二月一八日(月曜日)

産経新聞の記事に刻まれていたバフォメットの呪詛

一九八九年十二月十九日(火曜日)
新聞休刊日十二月十七日(12月第3日曜日『1989年新設』)の二日後の産経新聞千葉県欄朝刊

遺書に友人関係の悩み 女子中学生飛び降り

十八日朝、船橋市緑台二ノ六、グリーンハイツ一号棟(十一階)からちかくに住む高根中二年、A子さん(十四)が飛び降り自殺したが、A子さんは友達づきあいで悩んでいたらしく、関係者はショックを受けている。
船橋西署の調べたこと、A子さんが飛び降りた階段おどり場に置いてあったカバンの中から、文房具や教科書のほかに遺書二通が見つかった。遺書は一通が両親に、もう一通が友人五人にあてたもので、便せんに、はっきりとした書体でていねいに、友人関係での悩みがつづられていた、という。
A子さんは学校内でも活発な生徒。クラスでは書紀、部活はソフトボール部で活躍していた。また友人は多く、学年や学校を超えた仲間がいたという。
中学校ではこの日、四時間目の授業を早く切り上げ、校長が生徒全員を体育館に集め、事件を報告した。「悩みごとがあれば、友人や先生、家族に相談するように」と話すと、生徒たちの間からすすり泣きが聞こえた。

一九八九年十二月一九日(火曜日) 朝刊千葉県欄 産経新聞社

「船橋西署の調べたこと、」は誤りであり、「船橋西署の調べたところ、」が正しいのです。
この産経新聞の奇妙なエニグマは「バフォメットの呪詛」を刻んだのだろうと見做されます。

毎日新聞と違って産経新聞は「絶対に覆る」という意味のエニグマを記事へ刻み込みました。
それは記事のミスを装い「絶対に覆る」と言う「呪詛」として意図的に刻み込まれたのです。
それは「とこ」を覆らせたことであり厚顔無恥で愚かなミスを装った悪意と言えるでしょう。
「バフォメットの呪術崇拝とバフォメットの偶像崇拝」の「烙印」(エニグマ)を刻み込んだと見做せる。

これは毎日新聞社が「カトリック信仰」であることに対し、産経新聞社が「バフォメットの異端教団」であることを如実に示している。

二〇二三年十二月一九日(火曜日)
二〇二三年七月十四日(金)
東京サンケイビルの名が示されています。
宮崎駿映画「君たちはどう生きるか」の初日を鑑賞後に観光で名所をいくつか廻った内の一箇所だった。
二〇二三年七月十四日(金)
お昼頃の東京サンケイビルの正面エントランス付近
宮崎駿映画「君たちはどう生きるか」の初日を鑑賞後に観光で名所をいくつか廻った内の一箇所だった。
二〇二三年七月十四日(金)
お昼頃の東京サンケイビルの正面エントランス
「特別警戒実施中」の看板
宮崎駿映画「君たちはどう生きるか」の初日を鑑賞後に観光で名所をいくつか廻った内の一箇所だった。
二〇二三年七月十四日(金)
お昼頃の東京サンケイビルの正面エントランス前
キッチンカーが集結しランチを提供していました。
宮崎駿映画「君たちはどう生きるか」の初日を鑑賞後に観光で名所をいくつか廻った内の一箇所だった。
二〇二三年七月十四日(金)
お昼頃の東京サンケイビルのモニュメント
大迫力のオブジェであった。
しかし扇情的であまり平和主義を感じない。
宮崎駿映画「君たちはどう生きるか」の初日を鑑賞後に観光で名所をいくつか廻った内の一箇所だった。
二〇二三年七月十四日(金)
お昼頃の東京サンケイビルのモニュメントの説明文
作者はよく知らない人であった。
宮崎駿映画「君たちはどう生きるか」の初日を鑑賞後に観光で名所をいくつか廻った内の一箇所だった。

毎日新聞の当該事件記事の見開きには幾つかのイクトゥスが存在すると感じた

「悩むのは決して無駄にならないよ」。つまづく子供たちに、秋元はいつもそう声をかける
一九八九年十二月十九日(火曜日)
新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の二日後の毎日新聞千葉県欄朝刊

ちば人国記 医師編 7 秋元豊 鎌ケ谷・秋元病院長
鉄格子のない精神病院
地域社会とネットワーク作り

サヤエンドウ。すうっとスジをむくと横一列につややかな緑の豆が顔を出す。「家族みたいに見えるでしょう。ひととき保護して、また(社会へ)はじけていく。この病院のトレードマークです」
鎌ケ谷市初富の秋元病院は昭和六十一年、日本で初めて「家族病棟」を開設した。登校拒否、シンナー中毒、拒食症・・・・・・挫折した子どもたちが、家族とともに入院する。ここでは患者同士や、病院の職員もまた、家族の一員という考えに立つ。「心の病は、医者や薬だけが治すのではなく、失われた心の通い合いを取り戻すことから始まる」。それが精神科医・秋元豊(五二)の理念である。
秋元は思春期に心を病んだ経験を持っている。昭和一二年、東京都港区生まれ。細菌学者だった父は戦中に死亡し、一家は杉並区に移った。ただ一人の男子として、母菊枝(七八)と姉二人の愛情を一身に受けて育つ。秋元の膳だけ尾頭つきがのり、ズボンは女三人が交代でアイロンがけしてくれた。
「だんだん僕は男としてどう生きたらいいのか、分からなくなっていたのです」。区立宮前中時代から人と話すのが嫌になり、えたいの知れない劣等感にさいなまれた。陸上部では風を切って走っているときだけ”心の闇”を忘れられた。重苦しさは都立高へ進んでからも続いた。
片親だから就職口もないだろうと、医学部を志望するが、千葉大、東京医科歯科大と、ことごとく落ちて二浪する。一人で悶々(もんもん)とする秋元を救ったのが、古本屋で見つけた精神分析学者フロイトの書。「人間には自分でコントロールできない部分がある」。
精神医学との出会いだった。
二十七歳で岐阜県立医科大医学部を卒業、一年のインターン終了後、都内世田谷区の自衛隊中央病院に勤める。六年間、脳外科のメスをふるうが「どうしても精神科にひかれる気持ちを捨てきれなかった」。だが官僚組織では希望はかなわない。週に何回か千葉県内の民間精神病院にアルバイトに出かけ、外来診療を続けた。
高度経済成長期のひずみで、失業者が山谷にあふれていた時代。アルコール中毒がサラリーマンや主婦にも浸透し、大きな社会問題になっていた。秋元は根気強い治療を行ったが、家に返せば患者はまた酒に口をつけた。
そんなある日、酒におぼれていた四十代の患者がスッキリとした顔で診療室を訪れた。「先生、オレ酒やめたよ。”断酒会”に入ったんだ。先生も入らないか」。禁酒を勧める地域の自助グループが、いつの間にか彼を立ち直らせていたのだ。
ショックだった。「僕は医者としてどこか思い上がっていたのではないか」。血圧や肝機能のデータでは患者を説得できない。アル中を疾患としか見ていなかった失敗に気付いた。医療技術の効果は体に表れるが、地域や家族の力は心に表れる。老人の痴呆(ちほう)や子供の非行の問題も、そこに行きつくことが分かった。
五十二年、「診療所のような精神科を」と、松戸市に千葉県内で初の外来だけの東京神経科クリニックを開業する。が医師会仲間の反応は「精神科はそんな生やさしいものじゃない。第一町なかで通院させるなんて迷惑じゃないか」と冷ややかだった。
心の診療は問診に時間がかかるため、一日の外来も十人程度。団地の主婦ののノイローゼが多かった。
仕事に行く夫を見送るだけの生活。子供が親離れするころ、心にぽっかり穴があく。「生活全体から見直さなきゃだめだ。内科も歯科もある国民宿舎のような病院をつくろう」。五十五年夏、秋元病院の創設である。
今、その病院に全国各地から、何かにつまずいた子どもたちがやってくる。金属バットを振り回して荒れる中学生や、受験を前にふさぎ込む高校生の気持ちが、秋元にはよく分かる。ヒステリックに病院へ引っ張ってくる母親、無関心な父親。子供を送り届けて帰ろうとする両親に秋元は言う。「息子さんを苦しめているのは、お父さん、お母さんにも問題があるんですよ」
鉄格子のない精神病院で、秋元は地域社会とのネットワーク作りに取り組む。「日本は何か問題が起こると、原因だけをとり除いて安心する風潮があります。医療も教育問題も家族の中の誰かを悪者にして失敗している。家族療法は家族全体を”輪”としてとらえるのです」。シンナー中毒を克服した青年が入院中の子供たちを激励に来たり、地域の自助グループが病院内で勉強会を開く。秋元の夢が、ゆっくりと根を張りつつある。(敬称略、つづく)

一九八九年十二月一九日(火曜日) 朝刊千葉県欄 毎日新聞社

この記事が何故私に関連しているのか事情を知らなければ理解されないだろう。
この当時バブル経済末期と言われていた。
私の両親は彼らの結婚当初に購入した船橋グリーンハイツを所有していました。
しかし父の転勤で先ず山口県山口市へその後愛知県名古屋市へ転居して行った。
私は転勤先の山口県山口市で生まれ愛知県名古屋市で育った。
だから私にとっては船橋グリーンハイツの存在のほうが不可解だった。

何故こんなところに住みもしない家があるのだろう?

その後1983年10月下旬に父の東京本社栄転と言うことになった。
そして愛知県名古屋市守山区から千葉県船橋市緑台へ引っ越してきた。
船橋グリーンハイツに転居したのです。
バブル経済末期となり不動産が高騰して両親はかなり人間が変わってしまいました。
その不動産を売って財産を増やす味を覚えたのです。
船橋グリーンハイツでも一回転居した。
またもっといい場所に引っ越したのです。
そして私が高校三年時に鎌ケ谷市の一戸建ての購入を決めたのです。
バブル経済末期の不動産高騰状態で船橋グリーンハイツが高く売却できたらしい。
その資金で鎌ケ谷市内の一戸建てを購入したのです。
もちろんローンを組んでのことです。
彼らは当時その一戸建てが更に高騰した時のことを口にしていました。
両親の欲の皮は突っ張っていました。
ただその場所は「秋元病院」の間近だったのです。
10秒歩くと秋元病院なのです。
その秋元病院の記事が偶然にも彼女の死を知らせる新聞の見開きに掲載されていたのです。
もちろんこれは毎日新聞だけです。
当然彼女の死の前に私の転居は決まっていた筈です。
その一戸建ては新築の建設中であったからです。

この2つの記事は偶然なのだろうか?

この2つの記事は何らかのメッセージがあるのだろうか?

それは別の作品で明らかにしたいと考えています。

毎日新聞の「偶然性」と「メッセージ」について

新聞休刊日は月曜日が多い。
その理由は日曜に夕刊がないことによっているらしい。
それにより日曜の朝刊から翌日の夕刊まで休みができるという次第です。
しかし読者は新聞から一定期間遠ざけられてしまうだろう。

その意味は何だろうか?

いくらか考えてみて新聞の愛読者であれば必ず月曜日の夕刊を手に取り火曜日の朝刊に期待するであろう。

そしてその自殺事件の影響は私にとって大きかった。
それは決してマイナスの意味の影響ではない。
何故ならば私は救済されたかもしれないからです。

それは萩尾望都「トーマの心臓」を想起させました。

トーマの心臓(プレミアムエディション)より

ぼくは ほぼ半年のあいだずっと考え続けていた
ぼくの生と死と それからひとりの友人について

ぼくは成熟しただけの子どもだ ということはじゅうぶんわかっているし
だから この少年の時としての愛が
性もなく正体もわからないなにか透明なものに向かって
投げだされるのだということも知っている。

これは単純なカケなぞじゃない
それから ぼくが彼を愛したことが問題なのじゃない
彼がぼくを愛さなければならないのだ
どうしても

いま彼は死んでいるも同然だ
そして彼を生かすために
ぼくはぼくのからだが打ちくずれるのなんか なんとも思わない

人は二度死ぬという まず自己の死 そしてのち 友人に忘れ去られることの死

それなら永遠に
ぼくには二度目の死はないのだ(彼は死んでもぼくを忘れまい)
そうして
ぼくはずっと生きている
彼の目の上に

萩尾望都「トーマの心臓」

しかしその自殺事件が好ましいという意味ではありません。
ただそこに「友人(愛する)」があったのではないかと感じたのです。
トーマ・ヴェルナーの「友人(愛する)」とユリスモール・バイハンの「友人(愛する)」です。

ただそのような事件が起こり得る環境の中で私は生活していたことは確かでした。
そして私はその後に三年浪人して入学した東京工科専門学校の図書室で建築書を眺めていたのです。

またそこには東京工科専門学校映像科も存在していました。
私は図書室には映像化関連の書籍もありそこで「ゴダールの映画史Ⅰ|Ⅱ」を借りて読んでいました。

後に入学し拓殖大学外国語学部英米語学科の卒業アルバムにワンセンテンスをそれぞれ書くことになっていました。
私は「やりたいことの中でできることをやっていこう」と書きました。
それはジャン・リュック・ゴダールのこの本から引用した言葉であります。
私はそれをこの機会に告白しておきます。

ゴダールの映画史
ヒット作「勝手にしやがれ」についての部分
私はここから「やりたいことの中でできることをやっていこう」を見出した。

図書室でぱらぱらと建築書を眺めていると「毎日新聞東京本社パレスサイドビル」の写真が掲載されていました。
その写真を見て私はどこが良いのかあまりピンとこなかったことを告白します。
何故ならばファサードの一部分とカーテンウォールらしき外壁の写真が掲載されていただけだったからです。
その写真だけでは平凡なビルディングに見えました。
しかし建築書に名建築として掲載されているからにはそれなりに理由があるのだろうと判断していました。
実際見てみないと解らないだろうと思っていました。
私は朝日新聞社の社屋は見たことがありました。
そこは重厚で如何にも立派なビルディングでした。
ただ「ロゴス」と「絶対知」の違いが「白ミサの儀式」と「黒ミサの儀式」の違いであって「文化」と「サブカルチャー」の違いとなっているのです。
そこが毎日新聞社と朝日新聞社の違いであったのです。

あれから三十年近くたった今日私は国立近代美術館の美術鑑賞のついでに「パレスサイドビルディング」に立ち寄ってみたのです。

そして私にとって毎日新聞東京本社パレスサイドビル人生案内は国立近代美術館の美術鑑賞よりずっと興味深かったのです。
それをここに告白し現地写真レポートで終わりにしたいと思います。

パレスサイドビルは雑居ビルである。
地下鉄東西線の竹橋駅からこの地下階に直通できる。
この階段のデザインは眼を引いた。
由来は知らないが私は好きである。

毎日新聞社の理念を象徴している「ニッポン 世界一周大飛行完成記念」

ここにお詫びする。
多分この看板を倒してしまったのは私だと思う。
大変失礼しました。
他意はありません。
(もしかしたら入り口に近いので風で倒れたのかもしれない。)

『ニッポン』記念碑の由来

毎日新聞社は、昭和14年(1939)に、国際親善を深めるための世界一周旅行をなしとげた。毎日新聞航空部所属パイロットが純国産機で操縦して、日本人として初めて太平洋、大西洋を横断し、北半球と南半球を結んで飛び、わが国の技術水準の高さを世界に示した。
使用機は、全長15メートル全服25メートル全高3.6メートルの三菱製の双発輸送機で、巡航速度は260キロメートルと、当時の最新鋭機だった。
同機の名前には、130万通にのぼる読者の応募ハガキの中から、『ニッポン』が選ばれた。
『ニッポン』は、8月26日に東京・羽田飛行場を出発、10月20日に帰国した。56日間の全行程は52,860キロメートルで、実飛行時間は194時間だった。
世界一周飛行後まもなく、毎日新聞社は『ニッポン』のスケール・モデルを地球儀にのせた記念碑を作ったが、本社屋の移転などの間に破損してしまった。そこで『ニッポン』世界一周飛行後満50年にあたることし、設立当時のままに復元した。このため年号が「皇紀」となっているほか、社名が「大阪毎日」、「東京日日」となっている。

平成元年夏 毎日新聞社

二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
毎日新聞社の出版物
二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
パレスサイドビル屋上
二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
パレスサイドビル屋上
名所案内版(南側)
二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
パレスサイドビル屋上
名所案内版(北側)
二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
パレスサイドビル屋上
エレベーターホール
二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
パレスサイドビル屋上
エレベーターホール

毎日神社

二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
毎日神社
七〇円を賽銭箱に入れてきました。

納税問答(マタイ 22:15-22)

だから、カエサルのものはカエサルに与えよ、しかし神のものは神に(与えよ)

納税問答(マタイ 22:15-22)

そのとき、ファリサイ人たちがやって来て、どのようにして言葉尻をとらえて彼を罠にはめたらよいか、協議した。そして彼らは、ヘロデ党の者たちと共に彼のもとへ遣わして言う、「先生、私どもはあなた様が真実な方でいらして、真実に神の道を教えておられ、誰はばかることもない方であることを存じて上げております。なぜならあなた様は、外観で人をえこひいきなさることがないからです。
ところであなた様にはどう思われるか、私どもにおしゃって下さい。カエサルに税金を払うことは許されているでしょうか、いないのでしょうか」。しかしイエスは、彼らの悪意を知って言った、「お前たちはなぜ私を試みるのか、偽善者どもよ。私に人頭税の貨幣を見せよ」。そこで彼らは彼に、デナリオン貨幣を持って来た。すると彼は彼らに言う、「これは誰の像か、又誰の銘か」。彼らは彼に言う、「カエサルのです」。そこで彼は彼らに言う、「だから、カエサルのものはカエサルに与えよ、しかし神のものは神に〔与えよ〕」。すると彼らは、これを聞いて驚き、また彼を残して立ち去っていった。

岩波書店「新約聖書 マタイによる福音書」
詳細は下記

毎日神社由来

本神社は昭和十四年(一九三九年)十月二十日毎日新聞社機「ニッポン」号による同社主催 世界一周大飛行の完成記念として創建された 祭神は天照大神 産土神日枝大神ならびに飛行の平安完遂を祈願し全国読者から寄進の御神符が奉安されている
同航空機は中翼単葉の双発機で翼長二五メートル・全長一六メートルの純国産 当時の日本航空科学の粋を集めて制作された 全航程五万三千キロ 北太平洋横断無着陸飛行に成功 空の難関といわれた南米アンデス越えの新記録や大西洋横断の快記録など 世界航空史に不滅の光彩を放っている

祭日 例大祭十月二十日 月例祭二十日

二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
パレスサイドビル屋上
皇居
二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
パレスサイドビル屋上
皇居
二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
パレスサイドビル屋上
皇居
二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
パレスサイドビル屋上
皇居
二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
パレスサイドビル屋上
皇居

「読売新聞社のジブリ祭礼」と「毎日新聞社の静かな質素な小社の祭」(柳田國男)

私は宮崎駿の信仰の在り処とは読売新聞社ではなく毎日新聞社にあると感じたのです。
毎日新聞社の飛行艇こそ「紅の豚」だったのです。

序文(ヨハネ 一 1-18)

はじめに、ことばがいた。
ことばは、神のもとにいた。
ことばは、神であった。

岩波書店「ヨハネによる福音書」

ダビデの子キリスト論への反論(ルカ 二〇 41-44)

すると彼は、彼らに対して言った、「何故彼らは、キリストがダビデの子だと言うのか。実際、ダビデ自身が詩篇の書で言っている、
主はわが主に言われた、
「私の右に座せ、
私がお前の敵どもをお前の足台として据えるまで」。

そこでダビデ自身が彼を「主」と呼んでいる。それなら彼はどうしてダビデの子なのか」。

岩波書店「ルカによる福音書」


 第三の問題は更に根本的のものである。即ち祭礼が亦一つの祭だとするならば、さうしてマツリが古くからの忘るべからざる日本語であるとするならば、その大小各種の祭にも、必ず共通した大切な意味が無ければならぬのだが、それは何れの点に求むくきものであらうか。我邦の祭が時代の文化の影響を受けてへ世とともに徐々と様式を改め、しかも各御社毎に、それぞれ単独に発達して、外に現れた祭殊に祭礼の形が互ひにちがって居るといふことは、一段とこの根本的な共通点を見遁がすべからざるものにする。さうして又幸ひにして此状態が、それを見つけ出すのに都合がよいのである。仮に仏教の信仰行事のやうに、一宗一派で制定し教育し、全国御揃ひにきまって居るものだったら、よほど確かな記録でも無い限り、その一つ以前の形に復原することは難かったらうが、祭の様式は社毎に古例があって、それが変遷の各段階を存し、又思ひ思ひの改定が加へられて居る。我々は今まで馴れて怪しまうともしなか
ったが、同じ地方の祭又は祭礼といふものにも、こんなにもちがふかと思ふほどの変化が見られる。是を一つの信仰の現はれとして、少しも不審を抱かなかったのも、国民の持って生れた確信の一例で、外から観た者ならば疑ふ方が当り前である。さういふ状態のままではいつまでも置けぬだらう。

 それでこの三つの問題の中では、当然に第三のものに最も多くの力を入れなければならぬことになるのだが、其手段としては、やはり第二の問題を通って行く方が便利である。諸君の故郷の氏神様には、年に五十度七十度といふほど、数多い祭があることを報告せられて居る御社もあるに拘らず、通例マツリの概念として胸に浮かぶのは、小さな頃に目を見張った「祭礼」の光景ばかりで、たまたま田舎をあるいて、是でもマツリだろうかと思うような静かな質素な小社な祭を見ると、あれは信徒に力が乏しくて、万ず簡略を旨とし、ただ形ばかりを行うて居るのだろうという想像も起こりがちだが、それは今一つ他の一面に、「祭礼」の方が後に色々の趣向を凝らし、新たな催し物などを附け添えて、斯ういふ花々しいものにしたのだろうといふ見方も成立つので、実際は其方が多く当って居るのである。

 実例によって話をする方がわかりがよいであらう。祭礼といふと大抵の人が聯想するのは提灯のさまざまで、たとへぱ飛騨の高山などの祭礼には、町毎に御揃ひの長い提灯を軒につるし、その模様がいかにも落着いて居て、是をこそ御祭気分と感じない者は無いのだが、少し考へて見ると蝋燭はいつから日本にあるか、紙はいつから自由に供給せられ、是を割竹のひごを細く僥めたものに貼り付けて伸縮を自在にし、桐油を是に塗って雨に霜れても、破れぬ様にするまでの技術は、いつの頃から普及したか。この二つのものが合体しなければ提灯は無く、又それ以前から我邦には祭はあった。現に今でも祭の夜に限って篝を焚き松明の火を用ゐ、さういふ特徴を以て祭の名とするものも地方にはあるのである。

柳田国男全集「祭から祭礼へ/日本の祭」

スクープ(情報)があったら毎日新聞社へ持ち込むと真摯に対応してくれると感じました。

新型コロナウィルスの影響かもしれないが電話で繋がるようになっていた。

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