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「ホワイト・マジック・オーケストラ」を齎す「護符」

「義に背き恩を忘るる輩は天人てんひとともにこれを誅滅せん」

翌る日、桃園に黒牛・白馬・紙銭等を用意し、三人は香を焚き再拝して誓いの言葉を述べた。
「ここに劉備・関羽・張飛の三名は、姓を異にすといえども、兄弟の契りを結びし上は心を同じゅうして力をあわせ、困苦にある者を救い、上は国家に報じ下は民草に安んぜん。同年同月同日に生まれんことは得じとも、願わくば同年同月同日に死せん。天地の神々よ、われらが赤心をご照覧あれ。義に背き恩を忘るる輩は天人てんひとともにこれを誅滅せん

平凡社「三国志演義」

ぎ【義】
dikaiosynē theou; justitia Dei
ユダヤ教,キリスト教においては「神の義」の意味で用いられる。この際,義は普通の倫理的な意味における「正義」とは異なり,唯一神の属性であり,それにのっとることこそ人間の義なる(正しき)生活の規範とされた。旧約聖書では神の義は神ヤハウェの動的啓示的行為として現れ,しいたげられたユダヤ民族はそこに示された神の意志に服従し,律法を遵守するとき民が救われると考えられた(イザヤ書 45・8,51・5~7など)。新約聖書における義の観念もユダヤ教の義の延長上にあるが,パウロにより徹底的に深化され,律法によらずキリストを信じることにより,恩恵的に与えられるものとされた(ローマ書4・11,13など)。この信仰による義においては,人間の生は「義の武器として神にささげ」(同6・13)られたものとみなされる。このように信仰によって義とされることを⇨義認あるいは義化 dikaiosis,justificatioという。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ぎにん【義認】
justificatio
キリスト教神学で,人間を罪の状態から⇨義の状態へ移行させる神の行為をいう。元来ギリシア語の dikaioō(義たることを宣告する)という法廷用語から転用されたが,これがラテン語では justificare(義とする)と訳された。パウロによれば,人が神の前で義となるのはわざによるのでも,律法への従順によるのでもない。人間は神の前に義人として立つのではなく,神の恩恵に全面的に依存する罪人として立つ。神こそ罪ある人間を義なるものと呼ぶのである。人間の法廷では無罪のものだけが正しいとされるが,あらゆる人間が罪人であることを免れない神の審判の場では,義ならざる者が神の慈悲によって義者と宣告される。この宣告は恣意的なものではなく,「私たちの罪のために死に渡され,私たちが義と認められるために,よみがえられた」(ローマ書4・25)イエス・キリストによるのである。こうして罪ある人間は,律法,罪,死から解放され,神と和解し,聖霊を通してキリストのうちに平安と生命をもつにいたる。罪ある人間は,こうして単に義と宣告されるだけでなく,真に義なる者となる。これにこたえて人間の側からは,神の慈悲の判決を受諾し,主なる神に全幅の信頼を寄せねばならない。すなわち,「愛によって働く信仰」(ガラテア書5・6)をもたねばならない。以上の教説は,初期教会ではほとんど問題とならなかったが,わざによる自己聖化を唱えた⇨ペラギウス派との論争で,アウグスチヌスによって恩恵による義認が強調され,さらに中世後期のわざによる義認という表面的な考え方に戦いを挑んだ M.ルターによって一層徹底された。義認における神の行為の側面に重点をおいたルターは,その前提としての人間のわざを排し,「信仰のみ」 Sola fideの立場を取ったのに対して,義認の「結果」の側面に重点をおいたカトリック側は,トリエント公会議で,よきわざの必要をも強調してルター説を断罪した。しかし 20世紀の両陣営の多くの神学者は,両者の相違は概念理解の面だけで,信仰の本質においては根本的断絶はないとしている。以上の歴史的背景から,日本においては,プロテスタントが義認,宣義という訳語を好むのに対して,カトリックは成義,義化の訳語を採用し,罪の許しを意味する消極的成義と内的革新を意味する積極的成義を区別する。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

「護符」

"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

イマーゴ(神の似姿)への信仰へ一々敵対感覚を形成する「ブラック・マジック・オーケストラ」の正当化はカトリック信仰の存在へ自らの全責任を転嫁するスーパーフリー思想の容認によってなされる。

この作品はそのような悪漢に対する「護符」として制作された。

カトリックロゴスの根拠付けを持った「護符」

最高善信仰からの躓きを扇動する「ブラック・マジック・オーケストラ」を正当化する仕掛けとは最高悪サタンの計略であり、アンチキリストが主張する「純粋無垢で穢のない欲望」という屁理屈を「知の鵜呑み」の容易さとして高評価する。
そうやって社会的詐術は形成されていく。
それは一見「クリーンイメージの人間関係」(堕天使を「スター」の如く祀る「ヲタ芸」)が形成する天然邪悪の思想文化でした。

しかしそのような邪なあり方は人間動物の悪臭を発散し、それを「高価な香水」で誤魔化している存在に過ぎない。
そのような天然邪悪な思想文化は「サブカルチャー」(カウンタカルチャー)と呼ばれている。
しかしその正体は「文化」への「ブラック・マジック・オーケストラ」によった「ヲタ芸」(cult)であったのです。
「ヲタ芸」は「クリーンイメージの人間関係」(堕天使を「スター」の如く祀る「ヲタ芸」)でありスカトロジーの産物です。

「doxa」を「絶対知」とした「大俗物」が超能力者(大変な才能)とされているのです。

「聖なる香水」とはそのように穢れた「サブカルチャー」(カウンタカルチャー)を浄化するため制作された。
「浄化」とは「知の廃棄」の容易さへの導きであり信仰の入る場所が確保されることでイマーゴ(神の似姿)は受肉される。
それが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「ホワイト・マジック・オーケストラ」です。
それは「高価な香水」に対して「聖なる香水」と呼ばれるだろう。
それが「カトリック信仰」の「聖水」なのです。

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック信仰』であった。

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