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20241008-01 人生はいつもちょっとだけ間に合わない

昨日は尼崎の小林書店のことを書いた。それより前に書いた鳥取定有堂書店を取り上げた『町の本屋という物語』のレビューがAmazonにアップされたと連絡があった。ご興味があればそちらをどうぞ。大江戸線中井駅を出たところにある伊野尾書店という町の本屋さんにも触れています。

本屋さんの本のレビューが続いた。小林書店も定有堂書店も閉店したあとに知った。行きたかったなぁと思う。そしてそのたびに、是枝裕和監督の言葉を思い浮かべる。「人生はいつもちょっとだけ間に合わない」と。

この言葉を知ったのは、一昔前、宇治市福祉協議会主催で上映された「歩いても歩いても」の字幕付きバリアフリー上映会だ。字幕を必要とする私にはとてもありがたい企画だった。そして、それ以上に、その上映会のことを教えてくれた友の情報がありがたかった。

当時も今も映画館で上映される邦画に字幕がつくことはめったにない。そして運が良ければこうした上映会を知り、そこに出向いて邦画を見る。こんな行動を強いられるのが聴覚障害者の現実だ。

幸いなことに、今は地上波で放映される邦画には字幕がつくし、BSNHKやNetflixは邦画にちゃんと日本語字幕を付けてくれる。「サンクチュアリ」「地面師たち」そして「極悪女王」。ネトフリ三部作と勝手に名付けた作品は、リリース後すぐに一気に観た。聞こえる家人と一緒に観ておもしろさを共有し、感想を交換できる幸せをまざまざと感じた。人生のゆたかさって、さりげなくこんなところにあったりする。

残念なことに、AmazonPrimeの邦画は日本語字幕がついたりつかなかったり。「碁盤切り」を日本語字幕付きで観ることができたので、「アマロック」を見ようとしたら字幕がない。なんなの?この差は。

このnoteを始めた日に、鷲田清一先生の「漏れちゃう。のは本当にダメなことなのだろうか?」という「漏れる」ことを肯定的にとらえた論考を引いた。

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「漏れちゃう。のは本当にダメなことなのだろうか?」という、『テクノロジーに利他はあるのか?』(ミシマ社)の伊藤亜紗先生の言葉に「しびれた」鷲田先生の論考が展開される。(20241006-01)
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聞こえない私の存在が「漏れた」(というよりも、自身で開示していたからといったほうが正しいけど、それでも「漏れた」に通じるものがある)からこそ手に入れた情報によって観ることができた映画で、私はその後の人生を左右する哲学を学ぶことができた。その意味でも、それ以外の経験からも「漏れ」ちゃっていいじゃないのという立場を私は肯定する。本質を外れた、乱暴に言ってしまえば保身のためでしかないオーバーコンプライアンスの風潮を憂う。

本に限らず、映画から学べることも多い。特に良質な邦画は学びの宝庫なのに、その学びから遠ざけられてしまうのが聴覚障害の本質的なハンディキャップである。手話なのか、口話なのかという議論も確かにあってよいけど、邦画=日本社会の映画という疑似体験による学びから遠ざけられてしまう現実にもちゃんとフォーカスしたい。

「白い巨塔」「華麗なる一族」などの山崎豊子さんの作品、そして山田洋次監督の「寅さん」シリーズ。最近になってようやく字幕で見ることができた作品たちに私は打ちのめされた。リアルタイムで見ていたらどれほどの学びを現実の生活に生かすことができたかと、その失った時間を残念に思う。ここでも「人生はいつもちょっとだけ間に合わない」ことを突き付けられる。

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