見出し画像

雨とトトロ

私は、シトシトと降る雨が好きだ。雨が好きなのは、小さい頃からだ。

何故雨が好きなのかという理由を探ってみると、どうも小さい頃から宮崎駿監督の『となりのトトロ』を観て育ったことにあるのではないかと思う。
本作で描かれる雨は、大変印象的だ。
梅雨時の灌漑期の田んぼに降り注ぐ恵みの雨、繁忙期の農家の人々の雨の日の束の間の休息、嫌な子だと思っていたとなりの子の優しさに気付いた瞬間、そして何よりも父親を迎えに行った姉妹がトトロと出会った時の雨の音と、雨上がりの情景は筆舌に尽くしがたい。

幼い頃の私は、突風が吹いたらネコバスがとおったと喜び、道ばたでドングリを見つけたらトトロが落としたと喜んで拾って、夜にトトロが来てくれることを信じて庭に埋めた。
大人になった今でも、多分トトロはいると信じている。

社会と関わりを持つ様になって、土木の仕事をしだしてからは、ご都合主義になってゆき、雨が降ると色々な不都合が生じるからと純粋に喜ぶことは全くなくなってしまった。

宮崎駿監督は、目に見えない存在を可視化する天才だと思うが、元々日本人は自然の中の風、水、山等の存在の中に神を見出し、信仰していた民族だ。野生の生き物を見ていると、ヒトが感じることのできないものを感じ取っていることに気付くことがあるので、目に見えないは、ない、ということでは決してなく、ヒトの野生の勘が退化しただけだと私は思っている。

私が比較的長い間住んでいた地が、滋賀県である。滋賀県の特に湖北地方は、山岳信仰と、琵琶湖へと繋がる河川、つまりは水への信仰が厚い土地である。また、伊吹山はヤマトタケルが山の神である白猪と戦って敗れ、その時の深手が原因で亡くなったと有名な地であり、信長の合戦で有名な姉川等、日本の歴史と深く絡んだ地方でもある。
その地方を、私は勝手な考えかもしれないが、縁があると思って楽しんで暮らして来た。

梨木香歩さんの『椿宿の辺りに』という小説がある。梨木香歩さんの小説の中で私は、これが今のところ一番好きだ。

本書は、年齢を重ねるに連れて様々な堪え難い身体の痛みを抱える様になった梨木さんが、その痛みに全てを支配される理由は何だろうと疑問に思い、書かれた小説だという。
この小説の主人公は、鬱病や身体の痛みに翻弄されながら、その痛みの原因が自身の先祖の因縁と、先祖に仕えて来た野狐(人に大事にされないとグレる自然界に存在する霊)という稲荷や、自然の営みに反して行った治水工事にあることを探ってゆき、その理由を納得した結果、治癒してゆくという何とも不思議な話なのだが、それでも何故か、地に足がしっかりと着いていて面白い。
今、日本人が対峙しなくてはならなくなった自然災害のそもそもの原因は、目に見えぬ自然に対する畏怖の念を失ったことにあるのではないかと気付かされる小説である。

滋賀県の湖北地方に住んで感じたことは、十一面観音信仰が根強く、その観音像があちこちに点在しているということだった。その観音像の多くは、山間部の河川や水の豊かな場所のお堂に安置されている。
私が尊敬して止まない、白州正子さんの『十一面観音巡礼』から探ってみると、十一面観音は、水を司る竜神の化身として彫られたものではないか、と考察されている。

私が白州正子さんの本を頼りに十一面観音を巡ったとき、不思議に優しい気持ちのよい雨や雪が降ることがあった。その度に、白州正子さんが巡礼の最後を飾った奈良の聖林寺を訪問した際、町が雪で覆われていた場面を思い出し、私に降り注いだ雨や雪は、原点に回帰するよう自然が教えてくれているように感じたものだった。

巡礼の旅の終わりを白州正子さんは、こう記している。

もろもろの十一面観音が放つ、目くるめくような多彩な光は、一つの白光に還元し、私の肉体を貫く。そして、私は思う。見ると目がつぶれると信じた昔の人々の方が、はるかに観音の身近に参じていたのだと。

そうして、幼い頃、雨が好きであった理由を今一度探ってみる。すると、幼少期に見た石川県で暮らしていた祖父母の農作業の記憶が朧げながら浮かぶ。稲作をしていた灌漑期の祖父母の田に満々とある水、その横の水路を流れる澄み切った水。そして、五穀豊穣を願って祈りを捧げる祖父。

水が私の命の源であり、その水は、雨によってもたらされるから雨がいとおしいのだと、当然の考えにたどり着く。
そして、私はふと感じる。多くの物事の答えは既に先人の生きて遺してきた過程の中にあるが、それに逆らってムダに新しいことを見出だそうともがき苦しんだり、知ってて知らぬふりをする。そのこと自体が、禍になっているのではないだろうかと。

この記事が参加している募集

人生を変えた一冊

雨の日をたのしく

いつも、私の記事をお読み頂き、ありがとうございます。頂いたサポートは、私の様々な製作活動に必要な道具の購入費に充てさせて頂きます。