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【第2回:高橋由一】おしえてトーハク松嶋さん!

おしえて北斎!-THE ANIMATION-」は、絵師になることを夢見るダメダメ女子高生の前に、歴史上のスーパー絵師たちが次々と登場し、絵が巧くなるコツと夢を叶えるためのヒントを伝授していく、“日本美術”と“人生哲学”をゆるく楽しく学べるショートアニメーションです。

監督は、原作の著者にして生粋の日本美術マニアでもある”いわきりなおと”。そして、本作の日本美術監修をされたのが、東京国立博物館(トーハク)研究員の”松嶋雅人”さん。このお二人が、本作に登場するスーパー絵師たちについて語るロングインタビューを8回に分けてお届けします。

第2回目は、第2話に登場するスター絵師”高橋由一”(1828年~1894年)。
幕末から明治中期にかけて活躍した日本最初のプロの洋画家。

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【高橋由一ここがすごい!】
監督:第2話のテーマは「習え!正しいフィードバックをもらえ!」。高橋由一はこのテーマにまさに相応しい絵師だと思います。元々、彼は狩野派で日本画を学んでいたのですが、その頃、日本に西洋の絵が入ってきます。洋画に触れた由一は、自分でも描きたいという情熱に突き動かされて、ありとあらゆる手段を使って幕府の洋学研究機関・蕃書調所(東京大学の前身)に入局し洋画研究を始めます。39歳の頃、さらにありとあらゆる手段を使って外国人の先生を見つけ出して、洋画の教えを乞いました。
いわゆる努力の人です。是が非でも日本のために西洋美術を学ぶという情熱に加えて、純粋にその面白さに目覚めたんだと思います。私自身も過去にコンピュータ・グラフィックス(CG)を学んでいた時、当時は英語の本しかなくて、自分で訳して読むしかなかった。大変な作業なんですが、知らないことが分かってくると実に面白い。由一の場合は、興味対象への好奇心と情熱が、人並外れていたのかもしれません。そういった意味で、アニメーションでは熱血キャラクターにしています。

松嶋さん:由一は武家出身だったこともあり、世の中の為に成すべきことを成すという熱い思いを持っていた人です。彼の家は代々剣術を生業としていたのですが、本人はあまり得意ではなく、小さい頃から絵の方が上手くて、周囲からも認められていました。そのうち、剣術の師範であった祖父は由一を後継者にすることを諦め、絵の道に進むことを許し、由一は晴れてやりたいことに邁進できるようになったのです。いわきりさんがおっしゃられた蕃書調所についてですが、西洋の方法論を日本に生かすこと自体がこの時代では大義でした。それを実現する人こそ国の為になるんだという強い信念と使命感を持っていた。西洋を学びながらも精神的根っこは武士、由一はそんな人物だったのだと思います。
そして、由一の代表作となる「鮭」や「豆腐」についてですが、対象としてなぜ選んだのかと考える人や、そこに精神性を見出す人もいると思いますが、油絵には目の前にあるものを写実的に描くことができる技法があって、複雑な質感表現によって光の加減が描けます。逆に、これまで日本で使われてきた顔料は不透明で、光の加減が描けないために影を描き出すことができませんでした。幕末には、油絵風に描かれた「泥絵」が生まれたのですが、徐々に材料が揃ってきて環境が整った。だからこそ、由一は目の前にあった豆腐を見た通りにリアルに描けたんですね。つまり、西洋の技法を日本で生かす事ができた。由一本人は嬉しかったに違いありません(笑)。

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監督:幕末から明治は、侍だった人たちが、外国のことを学び、日本のために何ができるかを考え、行動していた時代で、高橋由一は刀を筆に持ち替えた志士であり、パイオニア的存在だった。そこが彼の凄さだと思います。

松嶋さん:時系列で言うと日本で最初の洋画家といえますね。情報も材料も乏しいなかで油絵の技法を用いて、日本美術ではできなかった写実表現を習得した彼の存在は大きいです。その後、アトリエを作り、後進の指導をしていました。今では門弟たち(川端玉章、岡本春暉、荒木寛畝など)の作品の多くがトーハクに所蔵されています。

【高橋由一・裏話】
松嶋さん:後進の指導を積極的に行っていた由一ですが、門弟たちの方が圧倒的に上手かったんです。その点では、後に登場する黒田清輝と似ているかもしれません。

【江戸から横浜まで本当に歩いて通っていた!?】
松嶋さん:新橋からの鉄道が開通する1872年より前に生まれた方ですから、歩いて(走って?)通っていたのだと思います。この時代の人は、江戸でも日本橋から浅草の距離を平気で歩いていたようですからね。スケジュールとしては、昼頃に横浜へ到着して、木戸が閉まる夜五つ(午後八時)前に江戸へ帰る…。相当な健脚です(笑)。今でいうと健康な人の1時間の平均歩行距離は約4 kmですけど、この時代の方は6kmぐらいで歩いていると思います。しかも当時は電話がなく、手紙も日数がかかるため、知り合いの所へ行く時も、何も言わずに行って、不在であればそこで終わりという(笑)。アポ無しが当たり前だったので、出会いがとても大事でした。先生に会いに行くというのも行き当たりばったりだったと思います。紹介状があってのことだったとは思いますが、会えなければ渡せない。なので、もう一度行くわけです。雨の日も、風の日も会えるまで通う。普通だったら諦めますが、情熱のために習うことを諦めなかったことは本当にすごいと思います。

第1回:尾形光琳はこちらから


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