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面白いこと=つまらないことの積み重ね

こんばんは。hokotiです。

日常ってほとんどが同じことの繰り返しだ。寝て起きて朝食食べて、歯を磨いて着替えて…同じことの積み重ねで構成される。毎日が積み重なる。

なにか新しいことを始めても、日常と化せばいずれはつまらさを感じるようになる。飽きも生じる。マンネリってやつ。

わたしの話をする。
転職して仕事を辞めたての頃は毎日が新鮮だった。今日は仕事に行かなくてもいい。毎日なにをしよう。いくつもの選択肢が溢れているように見えた。

だがひと月もすれば、生活パターンはだんだんと決まってくる。午前中は断捨離や転職情報をチェックして、午後は昼食を食べた後皿を洗って、就きたい仕事の勉強をして、MOSの試験対策をして……と、同じような毎日になってくる。そうなるともう新鮮さはなくなってくる。
朝起きると、今日も同じような毎日の繰り返しが始まる。

それで思うわけだ。「なにか面白いことはないかなあ」と。

でも待てよ。立ち止まって考えてみると、「面白いこと」というのは日常のなかに埋もれているものではないだろうか。
なんとなく日課にしているyoutubeめぐりから、とんでもなく面白い動画が見つかったり、惰性で契約していたサブスクのサービスから心躍るアクション映画を見つけてドハマりしたり。つまらなさを被ったなかに、「面白いこと」は潜んでいる。

それにだ。ここまでは受動的に、「面白いこと」を待っていたけれど、
自分から受け身で「面白いこと」を待っている必要もない。

受け身だった自分の頭をちょっと柔らかくして、面白いことを積極的に探しに行く、もしくは提供される前に自分でつくってみる、そんな生き方もアリじゃないでしょうか。(わたしへ)

じゃあいざ面白いことを探すそうとか、作るかとなったときに、面白さの下地とはなんぞや。


「面白いこと」の定義は人それぞれで、ここでは言及しないけれど。わたしは「面白いこと」に必要なものは、体力と知識、それから「面白いこと」に付き合ってくれる友人と場所だと思う。

んで、これらのものを確保するとなると、毎日を懸命に、つまらないことを丹念に積み重ねていく必要がありますな。つまり、つまらないことの積み重ねが「面白いこと」の産みの親となるわけだ。


退屈なニュースのなかに心躍る事柄のヒントが、つまらない活字を詰め込んだお勉強のなかにアイデアが、苦痛な筋トレのなかに気力の源が、面倒と感じがちな会話が人の縁を繋ぐ。たくさんの積み重ねが、「面白さ」を、生の実感をうみだしているのならば。

そう考えると、繰り返す日々も大切に生きようという気になるかな。ちゃんちゃん。

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