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253.「127 東京々々、長崎」の解釈 稿本天理教教祖伝逸話篇

はじめに

おやさと研究所教授の金子昭氏が「グローカル天理2021年12月号」にて、稿本天理教教祖伝逸話篇「127 東京々々、長崎」(以下「東京々々、長崎」)について書いている記事がありました。

これまで、「東京々々、長崎」について考えた事がなかったので、今回はそのことについて書こうと思います。


二つの解釈


まずは、今回取り上げている逸話から確認してみたいと思います。

稿本天理教教祖伝逸話篇127「東京々々、長崎」
 明治十六年秋、上原佐助は、おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いた。この時はからずも、教祖から、
「東京々々、長崎。」
というお言葉を頂き、赤衣を頂戴した。
 この感激から、深く決意するところがあって、後日、佐助は家をたたんで、単身、赤衣を奉戴して、東京布教に出発したのである。

この逸話を初めて読んだ方は、全員こう思ったと思います。


「長崎はどこいった?」


そうなんです。


長崎について何も触れられていないので、長崎とは一体何を意味しているのか、初見では全く分かりません。

この逸話について金子氏は、

 教祖の「東京々々、長崎。」というお言葉に対して、上原佐助は「東京」を選んだ。このことについて考えてみたい。このお言葉には二つの理解が可能である。

このように、二通りの解釈ができると述べています。

一つ目解釈は以下の通りです。

 一つは、2回繰り返される「東京」の力点に置く理解である。明治以降の東京は文字通り、政治・経済・文化の中心となった。そして、ちょうど江戸時代の長崎が、鎖国していた日本の唯一の西洋との窓口だったように、東京がまさに世界とつながる窓口となった。東京こそ、国内・海外のあらゆる情報が集積する都市である。だから「東京か、長崎か、どちらか」ではなく「何より東京であって、東京というのはかつての長崎にあたる」というのが、このお言葉の意味になってくる。教祖は上原佐助に対して、名実ともに日本の中心となった東京にこそ行くようにと、暗示されたのである。

つまり、日本が世界に繋がる窓口は、
江戸時代:長崎(出島)
明治時代:東京

このようになっていたため、「東京々々、長崎。」というお言葉の解釈は

「何より東京であって、東京というのはかつての長崎にあたる」

と考える説がまず一つ目になります。


続いて、二つ目の解釈は以下の通りです。


もう一つは、その後の上原佐助の身の上にひきつけた理解の仕方である。ここでも力点は東京にあるが、長崎という名前も生きてくる。東京に出た佐助は数多く講社を作ったが、最初にできたのが吉原講社だった。この吉原講社の熱心な信者の家に、富永つた(通称つね)という女性が奉公していた。熱心な勧めもあって、佐助はこの女性と結婚したが、その吉原講社の信者一家の屋号が長崎屋だったのである。つまり、「東京々々、長崎」というお言葉が、教祖の予言として佐助の身の上に実現したのである。ひょっとしたら、教祖は「東京々々、長崎」ではなく、「東京々々、長崎や(屋)」と仰ったかもしれない。

なんと二つ目の解釈は、
「東京々々、長崎や(屋)」
という教祖の予言だったかもしれないという説です。


どちらの解釈で考えるか


全く方向性の違う二つの解釈が出てきましたが、現代人が逸話を読む際に手本にしたいのは、もちろん一つ目の解釈だと思います。

「『世界に繋がる情報の中心地で、天理教を広めてほしい』
こういった思いが『東京々々、長崎』というお言葉に込められているのです。」

このように神殿講話等で説明されれば、「なるほど」と頷く人も多いように思います。

金子氏も「『東京々々、長崎』の意味」という小題にて、

ただ二番目の仕方では、お話がここで自己完結して終わってしまい、教学的には物足りないところがある。むしろこの逸話を現代につなげるためには、最初の理解の仕方を膨らませていったほうが良いと思う。

このように述べ、続けて

教祖は「東京々々、長崎」というお言葉を通じて、天理教の教えが日本の中心へと届き、世界の動きの先端と関わりながら展開していくことを願っていたのではないだろうか。

このように締めくくっています。

僕はこの解釈について、
「分かるんだけどしっくりこない」
と思ってまして、その理由は、
「現代人にとって理解し易す過ぎるのでは?」
という変な理由なのですが、この事については最後に書きたいと思います。


現代の「東京」「長崎」


現代における「東京」「長崎」(あらゆる情報が集積する都市)は何処なのかと言えば、間違いなく「ネット社会」です。

このネット社会にどう踏み込んでいくかという議論は、考え始めたら沼な上に、色々な所で擦られ倒しているので、ここでは述べません。

一つだけ挙げるとするならば、
「オンラインとオフライン」
「ネットと現実」
「バーチャルとリアル」
このように分けて考えることが、ナンセンスな時代に突入しているということです。

「SNSもいいけど現実もしっかりしなきゃいけないぞ」
という意見はごもっともではありますが、そう仰る方には
「現実もいいけどSNSもしっかりしなきゃいけないぞ」
と言ってやりたいですし、
そもそも、SNSと現実を別物と考えているようでは、感覚の時代遅れ感が否めないと思います。


「合理的な解釈」はあくまで「合理的な解釈」


先ほど、

教祖は「東京々々、長崎」というお言葉を通じて、天理教の教えが日本の中心へと届き、世界の動きの先端と関わりながら展開していくことを願っていたのではないだろうか。

という解釈を、
「分かるんだけどしっくりこない」
「現代人にとって理解し易すぎるのでは?」

と書きました。

何故そのように考えたかというと、

「日本の中心地で天理教を広めてほしい」
という考えは、
凡人でも思いつく発想だからです。

教えを広めるために、多くの人に知ってもらう手を打つのは当然の選択で、これを現代で例えるなら、
「商売を始めるから、PRの為にホームページを作り、SNSで発信しよう」
というぐらい平凡な発想です。


この平凡な発想に、神様の不思議は感じられません。


ですから、
この「東京々々、長崎」の逸話を、現代人に転用出来るよう普遍的に捉えてしまうと、逆に陳腐化してしまうのではないと思うのです。


「上原氏だからこそ、教祖は「東京々々、長崎」と仰ったんだ」
という、
個人の徳分を掛け合わせてこの逸話を解釈する方が、個人的に腑に落ちます。

そういった意味で、金子氏が二つ目に挙げた、「東京々々、長崎(屋)」という解釈も、大変面白いです。


この場合、上原氏は東京に因縁があり、教祖は上原氏が東京で大成すると見越して、「東京々々、長崎(屋)」と予言にあたることを仰った。
と解釈できます。

実際、東大教会から、日本橋、牛込、深川、浅草、阪東、立野堀と、多くの大教会が生まれていることから、上原氏が東京で布教した成果は大きいです。

また、金子氏は上原氏の特徴について、このように述べています。

おぢばにいても、会長職は務めていたので、東京には何度も出張していた。教務などの連絡には、手紙で済むときもあえて電報を打っていた。電報を打つ回数があまりにも多かったので、佐助は当時の丹波市郵便局電信局から「電報博士」というあだ名をもらうほどであった。

今でこそ、情報の「早さ=価値」と結びつくほど、情報が早いことは価値のあることですが、当時からそういった意識を持っていた人は、ほとんどいなかったのではないかと思います。

こういった上原氏の性格は、情報の集まる都市「東京」を拠点にするのに相応しい徳分と言えるのではないでしょうか。

ですから、
そんな徳分と因縁を持った上原氏を、神様が選ばれたと考えた時、
この逸話を現代人全員が参考にするのではなく、
上原氏のように、情報に関する徳分を持つものが参考にすべき逸話でないかと思うのです。


このように、
人類全てに当てはまる全体論としてではなく、上原氏の因縁や徳分も加味して解釈した方が神様の不思議も感じられて、僕にはしっくりきます。


おまけタイム


どーも!年末年始から体調を崩しまくっている男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

年末年始年始に喉を痛め、声が出せなくなったのですが、喉の調子が良くなったタイミングで、
帯状疱疹(水疱瘡)になってしまいました。

しかし、そんな体調でも、辛さやしんどさは無く、元気に動けているので本当にありがたいです。

ただ、こういう病気にかかっているのに元気なやつが、菌を撒き散らすんだなと思うと、なんとも言えない不思議な気持ちになります。


ちなみに、喉の不調と帯状疱疹の合間に、大学の同級生である「はかせ」とYouTubeのライブ配信を行いました。

普段2人で話している雑談を垂れ流しているだけなのですが、よかったらご覧ください!
話している内容の、主なトピックは
・年末に自殺願望を抱く人が増える話し
・AIの台頭による将棋の戦略の変遷が、おたすけにそのまま転用出来るかもって話し
・メタバース空間における「おたすけ」と「かしものかりもの」の話し
・その他もろもろ

こういった事について、僕とはかせの個人的な見解をざっくばらんに話してますので、良かったら耳のお供にしてみて下さい。

リンクはこちらです↓


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!











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