病院ラジオと女子会と
ラジオという名のテレビ番組
NHKに、「病院ラジオ」という番組がある。全国のいろんな病院にサンドウィッチマンが出向き、1日限りのラジオブースを作って院内生放送をし、その様子を放映する、というテレビ番組だ。NHK総合チャンネルで不定期に、祝日の朝、放送している。
病院の入院患者や外来患者、その家族などをゲストに、病気になって考えたことや支えになったこと、ひとなど、サンドウィッチマンのおふたりが聞いていく。もちろん、ラジオだからリクエストも聞く。そんなラジオは午前から午後まで院内で流れ、テレビはそれを追って1時間で番組にしている。
次回は11/4(祝・月)8:15~放送予定だ。
病院ラジオがリハビリ病院にやってくる!
病院って今いろいろあって、特定機能病院とか地域医療支援病院とか、求められる医療レベルによって違うし、病院の大きさも違う。従って病院ラジオが行く病院も、毎回違って多彩だ。大学病院、がん病院、こども病院、産婦人科病院、高齢者病院、原爆病院や、依存症治療病院なんてのもあった。
そして次回11/4はリハビリテーション病院。リハビリを専門にやっている病院。リハビリ病院は2例目。
その「病院ラジオ」2例目のリハビリ病院、「初台リハビリテーション病院」に、再発したわたしは入院していた。
リハビリテーション病院リベンジャー
「初台リハビリテーション病院」は、東京都渋谷区にある。が、都庁がすごく近く、位置的には渋谷区というより新宿区に近い。ついでに言うと中野区にも近い。山手通りの沿いに狭く狭く建つ。
脳卒中リハビリの専門病院として始まった病院で、病床数は179床。設立は2002年で、25年満たないぐらいの歴史だが、リハビリ病院としては長嶋茂雄監督やサッカーのオシム監督が脳梗塞後入院してそれぞれ見事に社会復帰したことで有名になった、と思う。長嶋監督は当時先端だったパワーリハビリ(加圧リハビリ)を初台でやっていて復活したので、初台はわたしが初発の脳出血を起こした2011年には、とてもとても畏れ多い高名な病院になっていた。
今の医療のシステムの中では、病気になっても急性期病院には長くいられない。クリニカルパス(クリティカルパス)という疾患ごとの標準スケジュールに則って治療計画が進められ、それを終えればそれぞれ帰るべき場所へ帰って行くようになっているからである。もたもたできないので、急性期病院は症状が安定すれば直ぐに転院先を探す。脳卒中はリハビリが必須なので、症状が安定すればリハビリ病院に転院することになるが、脳卒中のクリティカルパスは180日間、つまり全体で約6か月で終わってしまうので、リハビリの期間を少しでも長く取るためには、リハビリ病院への転院は早いほうがいい。
急性期病院からリハビリ病院に転院するときは、急性期病院のMSW(医療相談員:医療ソーシャルワーカー)から転院できる病院のリストが渡される。リストには多数のリハビリ病院が載っているので、そこから希望の病院を選び出し、MSWから先方に転院受け入れが可能かどうか、探ってもらうところが始まりだ。
わたしは初発の時はリハビリ病院で失敗してしまい、転院したはいいがメンタルを病んで適応障害を起こしてしまった。そのため、リハビリ病院に長くいられず、クリティカルパスを5か月も残して精神科に入院せざるを得なかった。絶望的になってずっと泣きっぱなしだったからだ、あの頃は。
なので、リハビリ病院にはものすごくトラウマがあったのだけど、リベンジがないと思っていたリハビリ病院選びの2回目が、再発によってやってきた。
「初台は…どうでしょうか?わたしみたいな庶民でも受け入れてくれますかね?」
今回は失敗したくない。今のわたしのメンタルなら大丈夫。そう思って急性期病院のMSWにおずおずと申し出てみた。東京23区内居住の患者さん優先で、都下のわたしは微妙だったが、意外にすぐ受け入れOKの返事が来て、転院の手続きが始まった。夫に病院の見学と面談に行ってもらったら、費用はむしろあまり掛からずに済みそうで(医療保険の標準報酬月額の等級、つまり収入によって違うシステムを取っているかららしいと聞いた。なので高い人は高い)好都合だった。初台リハは有名病院だが高慢な病院ではなく、高級すぎるわけでもなく(高級フロアは超高級)、低年収ですでに障害者手帳があって医療費助成も出ているわたしには、とても有難かった。
入院の申し込みをしてから3週間の待機期間があって、日本大学病院から初台リハビリテーション病院に転院した。11月末だった。
わたしは日大病院で誕生日を迎え、50歳から51歳になっていた。
「リハビリテーション病院はもうあなたの知ってるリハビリテーション病院じゃない。リハビリテーションはもう進化した」
初台のリハはすごい!初台のリハなら治る!メキメキ良くなる!という思いがもう何年もあって(片思い)、2度とないと思っていたチャンスの2度目があって、初台に転院した当初は期待でワクワクしていた。まだロクに喋れないのにゲラゲラ笑っていた。
考えてみれば、リハビリは自分のものだ。いくらいい医者がいたって、いいセラピストがいたって、自分がどれだけ頑張れるか、嫌がらずにリハビリ出来るか、なのだが、この時は「この病院には神がいる」と思えてならなかった。よく陽が入る明るい病院なので、よりそう思えて、よっしゃこれで治るぞ!と意気込んでいた。
わたしは前回ドロップアウトしたリハビリ病院と同じ轍を踏まないようにと、それだけひたすら気に掛けて「満期6か月でちゃんと卒業させてほしい、13年で打たれ強くなってます、今回はメンタルは大丈夫です」と入院カンファで言った。ら、「リハビリ病院に6か月入院してクリティカルパスいっぱいまで病院で過ごすというのは過去の話です。今はみんなだいたい2~3か月程度の入院ですよ」と返されてしまった。
その分初台では土日もずっとリハビリがある。年末年始も休まない。
「リハビリテーション病院はもうあなたの知ってるリハビリテーション病院じゃない。13年の間に、リハビリテーションはもう進化したんです」
担当になった作業療法士がわたしに言った。
食べることも修行
初台はとにかく食事にものすごくこだわる病院で、ひたすらちゃんと食べるように言われる。初台は「食べることもリハビリ」という方針なのだ。
転院した時わたしは食事をやっと口から食べられるようになったぐらいで、嚥下も良くなくて、よくせき込むので、1時間以上かけておかゆを摂食していた程度だった。
でも、初台の栄養士たちは食事形態も細かく設定して患者のレベルに合わせて食事を作ってくれるし、食が細くなって食べきれなかったらゼリーでもプリンでもなんでもつけるし、そのためにはよく栄養士がひとりひとり食べる様子を観にくるような環境で、食べさせることに容赦がない。わたしは転院して一気に設定カロリーが上がって食事の量が増え、「相撲部屋に来た」とよく口にしていた。リハビリするからにはその分はちゃんと食べて筋肉にしてください、というのが病院の主張らしい。
1食ごとに和食か洋食かも選べるし、塩分も1日6%で厳しく制限しつつも、とても美味しいし、洋食はフランス料理かイタリアンか、という感じでステキで豪勢だったが、とにかく食べきることが必至で「お残しは許しまへんで」という雰囲気も満々だったので、美味しくてもうんざりすることも多かった。
何度か吐きそうになるほど実際量が多かったので、入院生活後半は食事前にいつも胃薬を飲んでいた。ほとんどギャグだ。
リハビリ病院という社会
リハビリテーション病院は、自分で起き自分で着替えて朝を始める。わたしはもともと右手が使えない上に、この度の再発で使える左手も麻痺してうまく使えなくなったので、自分で着替えるのも大変だったが、「掛かる時間を逆算して自分でアラームを懸けてください」と言われ、どんどん起きるのが早くなっていくという有様だった。「退院したら自分で起きるんだから今から練習」と言われたが、必要に迫られたら何とかするんだから別に今はまだいいのに、、、とちょっとごちた(でも素直に言うこと聞きました)。
食事の時は食堂に行く。ひとつの病棟は50人ぐらい患者がいるが、その人数を2か所の食堂で捌く。席は決まっていて、男女別で介助度でテーブルが分かれていた。
女性で手が掛からない人は、一か所に集められてある程度放っておかれていた。食事を待つ間も終わった後も姦しく喋って、賑々しく笑っていたので、そのテーブルは「女子会席」と呼ばれていた。
わたしは時間は掛かるが、食べるのは自分で出来る。喋るのは難しかったが、よく笑うので、当然女子会の席にいた。
Good morning,How are you?
女子会席は4人で、わたしが転院した時は向かいの席に白髪の上品なおばさまがいた。知的な方で、若い頃から国際協力機関に勤務し、海外で農業支援などをされていたという。コロナで一時危篤状態になった後のリハビリと聞いたが、入院は長くなっていた。でもユーモアがあって、敬虔なクリスチャンで、感謝を忘れない方だった。
朝、食堂に行くと「おはようございます。昨日はよく眠れた?お元気?」と聞いてくださる。時々それは英語になった。How are you?そしてにっこり笑う。
リハビリ病院で、いきなり英語は高度だ。それ脳出血の人間に振るかよ、と思うが、なんとか、I'm fine,thank you.and you?と返す。ここは初台、さすがハイソですねえ。と周りが笑う。そういう小さなことが、笑いを起こし、場を和ませた。
最後は「今日もいい1日を」とか、「午後も頑張りましょうね」「よくお休みなさい、いい夢を」とか言って卓を離れていく。苦しいばかりに自分しか見えない患者が多い中で、みんなのことを気遣う方だった。弱音は吐くが悪口を言わない。面倒見がよく、入ってきたばかりの人には、自分から声をかけて、話し込んでいた。
わたしはクリスマスもお正月も一緒で、しばしば繰り出るナチュラルなお茶目に、とにかくすごく笑わせてもらった。クリスマスの病院食ディナーは、特に豪勢なフルコースで、「こんなこと二度とないわ!幸せなクリスマスよ!ありがとう」と言って、付近にいる職員ひとりひとりにお礼を述べて、出たジュースに酔っぱらっていた(許可が出た患者には、少量だがクリスマスはスパークリングワインかぶどうジュース、正月にはお屠蘇が出る。急性期病院で禁酒を言い渡されたわたしもこの日は飲んだ)。
ここはリハビリ病院、入院は6か月までの片道切符だ。出たら二度と戻れない。「こんなこと二度もあっちゃ困ります」。周囲は大爆笑だ。
食堂には職員たちが作ったクリスマスツリーが置かれ、BGMが流された。 付いたデザートのティラミスまでやっとで食べて、実際とても幸せなクリスマスだった。
Say Hello, and good bye
おばさまは、途中で圧迫骨折を起こしたりして、リハビリは苦労していた。華奢で上品でステキな方だったが、食事も量が食べられなくて、職員はあの手この手で、ご本人と攻防戦を繰り返していた。
わたしも今回の再発で右半身の麻痺が重くなっていたのと13年の痙縮で、リハビリに難しさがあった。また、担当の作業療法士がすでに廃用手になっている右手にもリハビリさせようと頑張ってくれたおかげで、入院が長くなっていた。
節分を過ぎたころ、おばさまはいよいよ次の行先を決めて出て行かれることになり、逆に前向きになっていた。行先はお嬢さんとお孫さんのいる土地で、遠い。そしてリハビリを続けるとのことだった。
「孫が大きくなるのを見守ってあげなきゃ、だからリハビリ頑張るの」
「また病院に帰ってくるわ、この病院のことを世界に知ってもらいたいの。リハビリして新幹線で時々東京に帰ってくるわ、元気になってまた逢いましょうね」
別れる朝、言われた。「笑顔よ、スマイル!それと挨拶!」
お嬢さんの年齢より10ほど年上のわたしだが、ママの言いつけのようにそれを聞いた。利他的で貴重な方だった。このイズムを守ろうと思った。
welcome, new commer
入院して毎日会っていた顔も、別れると1時間もしないうちに入れ替わりの新顔がやってくる。初台は退院が9時で入院も9時だ。待機の患者が多いので病室は本当にパッパッと用意される。
わたしは2人部屋で、同室は50代のリケジョ。ほぼ同年齢で、同じ脳出血で右麻痺。あっさりとした気さくな方で、気遣いもちゃんとしていらした。いろいろと話して、何かと仲良くなり、おばさま退院後も入院生活に楽しさは減らなかった。
おばさまとほぼ入れ替わりだったのは、イケイケの帰国子女で、同じ50代、こちらもやはり脳出血だが、左麻痺で、問題がない右手はゴージャスなネイルだった。
食堂の女子会席は若返ってさらに女子度が増し、もっとポジティブでもっとフリーになった。中に、車いすのまま自宅退院が決まった方がいて、不安そうにしていらしたので、わたしは13年の障害者キャリアと福祉職として持つ制度知識などを食事中に伝え、車いすでも楽しく生活できるよ、大丈夫、とみんなで励ました。嚥下が微妙で食べるのが遅いわたしに合わせて、食事後のアフタートークは花開き、開いたまま居座る時間は長くなった。
帰国子女は趣味がトレーニングだったから、筋肉と動作と栄養の知識がプロ並みで、リハビリ病院にはもってこいの人だった。おまけにリハビリの英語論文も読める。
リケジョは歯科医師で口と舌が麻痺するわたしに病室でも個人指導してくれる有難い人だ。メカ系女子なので、機械に強く自然科学、宇宙科学まで知識も幅広い。
結局女子会席は最後までほっとかれて居座る席になってしまった。
初台の療法士たちは若くて熱心だ。リケジョの担当はストイックで、求めるところが高かった。はっきり言うと、オタクだった。リケジョは各種自主練を何百回と担当に言い渡されていた。彼女は真面目で、厳しいリハでも文句も言わないエラい人なのだが、自主練に忙しい上に、自分の仕事も病室に持ち込んでいて気の毒なほど没頭していたので、何のために入院しているか、少しは休ませろ、とわたしは茶化していたほどだ。
自主トレパーティ
わたしは再発で痙縮がキツいので自主トレはテキトーで良かったが、そんなリケジョを見ていると逆に申し訳なくなってきて、一緒に自主トレをやってくれないかと声を掛けた。下肢の自主トレはベッドサイドだが、手の自主トレはテーブルで一緒に出来る。そしてリケジョもわたしも、右手は全然動かなかった。
女子会席と部屋の延長で、なんだかんだと会話しながら、自主トレが捗る。わたしは右手が固くて痛くて泣きそうでも、リケジョとやればつられてなんとかこなせた。
夕食後、部屋を出てすぐの面会テーブルで手の自主トレが始まる。食事と一緒で、喋る時間の方が長くなった。わたしたちが姦しいので、病棟を歩き回って歩行練習する帰国子女も誘い込まれた。いつしか3人でやるようになった。
食事後もみんなでアフターパーティーだった。まさしく「女子会」だった。
3人でイチ抜けしたのは、やはり入院が長い順でわたしだった。1人では絶対やらない自主トレなので、惜しさがあった。入院患者は患者同士で連絡先交換などもしにくいし、退院したら日々に紛れて入院の時のことは忘れがちになってしまう。励まし合うことも過去になっていく。それは目に見えていた。
「わたしが退院したら、LINEで繋いで、自主トレを続けましょう」
そう言った。これで過去になりたくなかった。
満場一致。
LINEグループで、「初台リハビリ女子会」を作った。
病院ラジオがやってくる
わたしが退院した日の夕方から、女子会自主トレはLINEグループのビデオ通話で続いた。
日々のリハビリや、それぞれの出来事を話して、話に花が咲く。萎まないうちに、自主トレが始まる。次の日の時間を約束して、通話を終える。時々病院の夜勤の職員が通りがかって、ゲスト出演する。
これだけのことでも、病院の1日にも、また在宅の1日にも、花を添えた。
自主トレがLINEに移行してからしばらく経って、病棟に、いや、病院のところどころに、テーブルが置かれた。NHKの病院ラジオという番組が、初台でラジオ局を開くという、そのお知らせのチラシがテーブルの上にあった。チラシの裏にはリクエスト曲や病院でのエピソードを書く欄があり、横にはそれを入れる応募箱があった。
テーブルの横にNHKのスタッフがいて、応募しませんか、リクエストありませんか、と、通りがかる患者に声を掛けているという。
リケジョがオンラインでそのテーブルとチラシを映して見せてくれた。
その時点で4月?5月?ラジオの予定が8月だったこともあって、わたしたちは最初あまり関心がなかった。エピソード?リクエスト曲?ふーん、程度。病院ラジオという番組も知らない。でも、ある日病院の夜勤の職員が通りがかって、「病院ラジオ、なんかないですか?応募が少ないんですって」とオンラインで言われて、アタマを動かすことにした。
あ、そっか。
何かの悪だくみはいつもわたしだが、いつも言いっぱなし。しかも、もう退院して初台とは縁が切れている。退院しても初台の外来に通院していた帰国子女はスピーディーに動いて、スマートに文章にして番組に応募してくれた。唯一人病院に残っていたリケジョは、病棟でNHKの取材を受けてくれた。
病院ラジオがやって来た
というわけで、わたしたち女子会の関係は三方良しの役割分担。
帰国子女が女子会を代表して彼女の発症やリハビリライフを病院ラジオで話しました。わたしたちももちろんネタになっています。わたしとリケジョはリスナーで、病院でラジオを聞きながらツッコミ入れてます。
明日朝、放送になります。
LINEでテレビ通話しながら、それぞれの家でテレビを観る予定です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?