見出し画像

お花見サークル。

毎日どうなるのだろう、と思うのは、もうやめた。
不安に思うことを考えていても、結局どうすることもできない現実を憂うだけでは、時間だけが過ぎるからだ。

ナナコの事が好きだった。
彼女と別れたのは、もう何年も前の事になる。
神社でお別れをしたとき、行ってしまった彼女の後ろ姿を見て、もう会うことはできないと僕は思った。
思ったというよりも、正しくは悟ったと言った方が正しいかもしれない。

ナナコとの出会いは、僕が大学のお花見サークルという教室に入ったときだ。僕なんかに声を掛けてくれたナナコが「こんにちは。来週行くお花見ですっごい綺麗な場所があるの。知ってる?」と笑顔でiPadを向けられた。
多分、去年のものを彼女は細長くて白い指でスライドして見せてくれた。綺麗なピンク色の花びらの付いた、たくさん木の枝に咲いている写真の数々が、画面の中に映し出されていた。けれど、ぼくが見ていたのは、彼女の指だった。僕の指よりも細くて綺麗な爪があって、とても美しかったのだ。

お花見サークルに入ってから、4月はずっとナナコとサークル仲間で色んな場所へ出かけた。
広い公園の中に咲く満開の桜を見上げて、皆んなが上を見つめる最中、僕の視界の中には彼女がいつもいた。

さぁ、お弁当を食べよう!
仲間の一人がそう言って、サークル代表のリーダーが重箱のお弁当を取り出すと、副部長は近場のコンビニに寄って買ってきたポテトチップスを出した。副部長の彼女は家でお気に入りのお茶を淹れてきた水筒をレジャーシートに置くと、ナナコはリュックから林檎を三つと紙のお皿とナイフを取り出した。
僕は副部長と同じコンビニで買ってきた唐揚げとコロッケを人数分、皆んなに配ると、ナナコは皮を剥いた林檎を僕に渡してきた。

僕はそのとき一口齧った林檎の酸味と甘さをよく覚えている。実家が林檎農園だから、よく送られてくると彼女は言っていた。林檎農園のある青森は、収穫した林檎を契約先に卸しても食べきれないほどにあるという。親戚に送ったり、近所に配ったり、自分たちで色んな料理レシピにアレンジしては林檎を食べているけれど、幾らかは廃棄せざるをえないのが現状だと、彼女は語っていた。

僕はそれがどれほどに深刻な現実なのかを、具体的に想像することができなかった。言葉では、大変だね、と口にしても当事者でない限り、本当の大変さを知らない。
だから、ナナコが大学を卒業したあとの未来をどう考えていたのかなんて、お花見サークルで知り合ったばかりの頃の僕には、想像し得なかった。
僕はただ、ナナコのことをもっと知りたかった。ただそれだけが頭の中でいっぱいになっていた。

ゴールデンウィークを迎える頃には、僕はナナコと付き合う仲になっていた。お花見サークルで知り合った仲間も、僕たちが付き合うことに祝福してくれた。
街のカフェでケーキとお茶を頼んだとき、真正面に座って紅茶のカップを持ち上げて微笑む彼女は本当に愛らしかった。白いシャツの上から黄色いカーディガンを羽織り、セミロングの髪が揺れている。ピンク色の唇が美しくて、微笑むときに左頬にだけに見られる小さなえくぼ。

春が過ぎて、夏になり、お花見サークルの面々と行った海水浴や花火大会には、僕の横にはナナコがいた。

けれど、秋になる頃には、僕の横にナナコの姿があるのは時々になった。
だから僕はコンビニのアルバイトを秋くらいから始めた。正直言うと生活には困ってはいなかった。高校生のときから居酒屋でずっとアルバイトをしていたし、それなりに貯金があった。寮だって結構安い。親が一年間だけは仕送りをしてくれるというから、僕はそれに甘えて新しく出会ったお花見サークルの仲間たちと楽しく大学生活を送っていたし、最も一番かけた時間はナナコに全力で交際することだった。

ナナコの意識が変わったのは夏の暮れくらいからだ。英語と中国語の語学の授業を彼女はがんばっていたけれど、もう少し勉強するための時間が必要だと僕に言った。彼女の頑張りを応援しない彼氏はいない。実質、それが別れのカウントダウンだったのだが、当時の僕にはそれは一時的な逢瀬がないだけの出来事だと単純に考えていた。

翌年の春になる前だった。冬の初詣のことだ。
ナナコは留学したいと言った。僕はどれぐらいなのかと聞いた。留学は一年だった。けれど、その先でずっと日本で勉強を学ぶか仕事を持つのかは分からないと言った。
僕は、ナナコの頑張りを応援し続けることだってできた。けれど、ナナコは辛そうに僕を見つめた。本当にそれで大丈夫なのかと。電話をしたり、メールをしたり、連絡をやってきたからこそ、寂しくないよって僕は言った。
ナナコはゆっくり首を振った。

- 私はあなたのことが好きだから、ずっと連絡ができるように、あなたに合わせて勉強を頑張ってきたの。だけど、これからは多分合わせることは難しいかもしれない。

そう彼女は悲しい表情を浮かべて、涙ぐんだ。
それは、どういうことなのか、正直良く分からなかった。僕に合わせてたって、一体何のことを言っているのか。

- 合わせてたって、どういう意味だい?

聞かずにはいられなかった。だが聞いたのが間違いだったのだ。ナナコとの付き合いを長く求めているのなら、彼女が「合わせてた」という理由に僕はもっと早く気付くべきことだった。

- ごめんね。電話もメールも正直苦痛でしかないの。あなたが嫌いなわけじゃない。電話が来るまでに終わらせておくべき勉強を私が片付けられないだけなの。メールを読むのも勇気付けられるけど、メールを楽しみに読む前に提出するレポートを完了させることができないから。自分が嫌になるの。あなたと会うとき、私は自分のことばかりを気にしてる。本当にごめんない。

彼女と距離を置くことになったのは、その直後からだった。
僕はショックを受けたし、彼女とはもう付き合うことはできないのかと、頭が一杯になった。既に将来のことを考えていたナナコと僕は、もはや決定的に一緒にいるステージが違うものなのかと愕然した。

ナナコは春になる少し前に、留学先のオーストラリアへ旅立った。北から南へ渡るだけ。時差一時間しかない場所だ。フライトなら七時間くらいになる。追いかけて会おうと思えば行ける距離なのに、僕は重い腰を持ち上げる気力すらなかった。フラフラする頭で考えていたことは、僕にはナナコのように自分が将来どうしたいのかを具体的に考える夢とか希望とかが、まだなかった。
高校の内申点が良かった大学に筆記と面接だけで受かって気楽に通学してるだけだった。何となく大学に入学した。目的なんて特にない。それなのに、そんな僕の目の前に現れたナナコという彼女の存在は、僕にとって大学へ通う大きな目的となっていた。むしろ、別れた直後の僕なんて目的がなくなって生きる屍のように魂が抜けた状態だった。
ぼんやりと眺める桜の季節を、僕は二度ほど迎えた。ナナコとは初詣以降、会えていない。というより、僕はもう意図的に彼女と会うことを止めた。
僕は彼女の事が忘れられそうにない。未練タラタラだ。
恐らく僕は、この次、彼女に会ったら離したくなくなるかもしれない。そんな、執着心も芽生えていたし傷付いた心を風化させるまで相当に時間は掛かるし、そして、とてつもなくみっともない。
そんな自分を想像したことも怖くなった。

「シンドウくん。コラッ進藤くん!」
怒気を含めた呼び方に、目の前の景色が弾ける。目に飛び込んで来るモニターに注意を向けられた。
「すみません。何でしたっけ?」
呼びかけられたモニターの先で、肩を落としてヘッドセットのマイクに先輩が大きく溜め息をこぼした。
「ぼーっとしないで、ちゃんと聞いてよね」
「なんかちょっと、まだ不慣れで」
「メール送ったから、見たら直ぐ仕事に着手してね。それじゃ」
ぷつりとビデオチャットは途切れた。

遠い昔の記憶が、ふと蘇り思いだしてしまうことだって、たまにはあるだろう?
それに仕事に不慣れなのも在宅作業にイキナリ切り替わってから、まだ二日だ。
政府からのお達しで、よもやリモートワークを自宅からすることになるとは思わなかったのだから。この世の中で仕事があるだけまだマシなのだろうが、それでも少しは作業の大変さを汲んでもらいたい。

小さく息をついてからテーブルから立ち上がり、窓の外を見た。
都心のど真ん中。首都圏の中心と言ってもいい。だが、人通りは殆ど少ない。
曇天の景色の中で遠くスカイツリーが見えた。今日は少し白く煙掛かっていて、ボンヤリとしている。
再びデスクに戻り、先輩からのメールを開いて、ざっと流し読みしてから直ぐ閉じた。

- あー、全然だめだ。今日はマジで仕事になりそうもない。

そう感じて、ゴロンと畳の上に体を横たえた。
メールの巻末に書かれた先輩上司からのお言葉を反芻する。
天井を見上げたまま、僕はまた昔のことを思い出していた。

『 春から着任早々こんな事態になったけれど、仕事はキチンと作業報告を。花見をしに行って仕事を放るようなことは、ダメよ。昔と違うんだから。 - 江ノ島菜々子 』

了.

宝城亘.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?