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特集#3 その葛藤には意味があった。「ネガティブ・ケイパビリティ」に救われた保育者の話〜前篇〜

今、ものすごいスピードで世の中が変化しています。
先行きが見通せない不安定な時代だからこそ、つい答えを欲してしまう。そんな状況が加速しているのではないでしょうか。

そんな中、注目を集めている考え方があります。それが「ネガティブ・ケイパビリティ」。
もともとは精神医学の世界で提唱されたこの概念は、「簡単に答えが見つからない問題」や「先が見えない不安定な状況」において、葛藤しながらも、焦らず、向き合っていく力を意味する言葉として知られるようになってきました。

実は、このネガティブ・ケイパビリティという考え方は、保育の実践でとても重要視されている概念でもあるんです。
今回ご紹介するのは、現役の保育者でありながら、大学院でネガティブ・ケイパビリティについて研究していた鶴瀬友理さん。
「いかに目の前の子どもに向き合えるか」日々の保育の現場で葛藤し続けていたという鶴瀬さんは、ネガティブ・ケイパビリティの考え方に出会えたことで「自分を肯定できるようになった」といいます。

鶴瀬さんがどのように葛藤と向き合ってきたのか。その歩みや気づきを紐解きながら、ネガティブ・ケイパビリティの世界を覗いてみようと思います。

鶴瀬 友理
2016年に田園調布学園大学大学院の人間学研究科子ども人間学専攻に入学し、「ネガティブ・ケイパビリティ」をテーマにした修士論文を執筆する。季刊『幼児の教育』2023秋号(株式会社フレーベル館)に執筆記事「私の保育ノート 保育者になって10年目の私」を掲載。
現在は、田園調布学園大学みらいこども園に保育士として勤務している。



「子どもたち一人ひとりに深く関わりたい」。理想の保育を目指す中で生まれた葛藤。

ーーまずは「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念に出会うまで、鶴瀬さんがどのように保育者として過ごしてきたのかお伺いしたいと思います。

鶴瀬さん:はい。もともと「人と関わる仕事がしたい」と思っていたこともあり、大学進学のときには保育、特別支援、ネイチャーガイドという分野を志望しました。
その中で受かったのが保育学科のある大学でした。大学で学んでいるときも「幼少期は人としてのベースを形成する重要な時期。そこに関われる仕事って良いな」と感じるようになり、そのまま保育士として就職しました。

ーー実際、保育士として働かれてみていかがでしたか?

鶴瀬さん:(最初に就職した保育園では)やっぱり働きはじめてしばらくは、わからないことや慣れないことばかり。大変な状況になってもうまくヘルプを出せなくて、よくパニックになっていましたね。とはいえ3年目くらいになれば仕事にも職場にも慣れてきて。担任としてうまく立ち回れるようになってきて、自信もついてきました。
そんな中、大学時代にお世話になったゼミの先生が登壇される保育の研修会があると聞き、参加したところハッとさせられました。

ーーどういったことでしょうか?

鶴瀬さん:ものすごく端的に言うと「子ども一人ひとりにちゃんと向き合えているか」という問いを突きつけられたんです。保育園では、絵を描いたり、製作をしたり、"みんなで一緒に”活動することが多くなります。
そんなときたしかに現場で経験を積んだことで、子どもたちをまとめたり「集団として動かす」ときの声かけはうまくなっていました。でも、それってこちら側の都合でしかありません。

次第に「私ってそういう保育をしたかったんだっけ?」とモヤモヤが生まれはじめました。
そんなとき、学生時代にその先生から「近々あなたにぴったりの大学院ができる。何か迷うことがあったら進んでみてもいいんじゃない?」と言われたことを思い出しました。調べてみると、すでにその大学院は開設していることがわかったんです。そして2016年に田園調布学園大学大学院に入学。日中は保育士として働きながら、夜間に大学院に通う生活をはじめました。

ーー実際に入学してみていかがでしたか?

鶴瀬さん:たしかに保育について本当にたくさんの学びを得ることができました。「こんなに一人ひとりの子どもたちと深く関われる保育ができたら」とワクワクしましたね。でも、いざ保育園の中で実践しようとするとうまくいかない。頭では「子ども一人ひとりに向き合おう」と思っていても、集団として子どもを見てきた自分の意識や行動をすぐに変えることはできませんでした。

そもそも、子どもは一人ひとり性格も考え方も異なるひとりの人間だから「こうしたらあの子にはうまくいったけれど、この子にはうまくいかなかった」というシーンなんてたくさんある。
「保育には正解がない」ということはよく言われているんですけど、言葉として聞いたことがあっただけで、本当にその意味を実感し始めたのはこの頃からでした。

「正解がない」って言われても、正解がほしくて仕方がない。どうしたら自分がやりたい保育に近づくことができるんだろうって、毎日毎日うまくいかずに悩んでましたし、できない自分には保育士としての力量がないんだと自信をなくしていきました。
半年くらいそんな状態が続いていたある日、象徴的な出来事が起きたんです。

ポツンと佇む子どもの前で何もできなかった。でも、その時間には意味があった。

ーーそれはどういった出来事でしょうか?

鶴瀬さん:ある日、ほかの子どもたちが自由に遊んでいる中で、とある女の子が一人ぽつんと座っていたんです。仮にその子をA子ちゃんと呼びますね。
そこで私が「A子ちゃん、どうしたの?」と聞くと「〇〇くんたちと遊びたいんだけど中に入れない」と言いました。私がA子ちゃんと一緒に、その男の子たちのもとに行って「A子ちゃんが一緒に遊びたいんだって」と伝えると、しばらくは一緒に仲良く遊んでいたんです。
でも、しばらく経って様子を見ると、またA子ちゃんがみんなの輪から外れて一人ロッカーの近くでぽつんと佇んでいる。「あれ、〇〇くんたちと遊んでいたんじゃないの?」と聞くと、A子ちゃんは何も答えません。

そのときの私には「言葉で問いかける」以外にA子ちゃんの気持ちに近づく方法が思いつかなくて、問いかけに答えが返ってこないことでなす術がなくなってしまいました。
結局、ただ私も同じようにロッカーの前で一緒に座っていることしかできなくなってしまったんです。わずか数分ですが、その時間はとても長く感じましたね。

ーーまさに「どうすればいいんだろう?」という答えが見つからない状況ですね。

鶴瀬さん:A子ちゃんのことを理解したいのにどうすることもできない、何とかしてあげたいのに何もできない……先生なのに力になれない不甲斐なさと申し訳なさでいっぱいでした。
その後、しばらくしてA子ちゃんがふっと立ち上がり「指編みがしたい」と言ったので、一緒に指編みで遊びましたが、そのときはただ「答えがない」状況にいることが苦しかったですね。

葛藤する苦しさを救ってくれた「ネガティヴ・ケイパビリティ」との出会い

ーーその後、その「苦しさ」をどう受け止めていきましたか?

鶴瀬さん:その出来事からしばらく経ったある日、保育園の活動で子どもたちの足型を取ることがありました。
そのときに床に敷いた新聞紙の中に「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」という文言が目に飛び込んできたんです。

ーーそこが鶴瀬さんと「ネガティブ・ケイパビリティ」の出会いだったんですね。

鶴瀬さん:「答えの出ない事態に耐える力」なんて、まさに今私が求めているもの。その場でそっと新聞紙を抜き取ってポケットに(笑)。
後でよく見ると、それは精神科医の帚木蓬生(ははきぎほうせい)先生の書籍の広告でした。すぐに本を買って読みはじめました。
その本では、医師が患者さんの話を聞いてケアしていくプロセスからネガティブ・ケイパビリティを説明していたんですが、そのプロセスは「保育者と子ども」という関係性においても通じることがあると思ったんです。

ーー具体的にどういったことでしょう?

鶴瀬さん:その本では「精神科医は、簡単に解決できない患者さんの身の上相談をただ聞いているしかない時がある。」といったことが書かれています。たしかに保育の現場でも、A子ちゃんとのエピソードのように、答えが出せず「ただそこにいる」ことしかできない場面があります。

ーーそんな時に「ネガティブ・ケイパビリティ」がどういった"助け”になるのでしょうか?

鶴瀬さんすぐに答えがわからなくてもいい、葛藤していてもいい、ということを肯定してくれるということですかね。
保育において「子どもを理解すること」はとても重要です。でも、それはとても難しいこと。
「理解する」と言っても、表面だけを見て子どもの気持ちがわかった気になるのと、答えが見つからない中でも子どもたちの本当の想いや気持ちにどうにか近づこうともがくのとでは、「理解」の意味が全然違うものになります。

子どもの心の中を完全に理解することなんてできないので、保育者は「本当にそうなのかな…?」という自問を繰り返したり、戸惑いをずっと抱え続けることになるんです。子どもたちを理解するためには、「子どもたち一人ひとりが、どのような世界を生きているのか」に思いを馳せなくてはなりません。
逆に、そういう葛藤があるからこそ「子どもを理解すること」に近づくことができる。だから、葛藤することを肯定してくれる「ネガティブ・ケイパビリティ」は保育にはとても必要なものなんです。

※記事の中で語られている保育園でのエピソードは、現在鶴瀬さんが勤務している「田園調布学園大学みらいこども園」での出来事ではありません。

後篇につづく

撮影:飯坂大
撮影協力:田園調布学園大学みらいこども園、田園調布学園大学大学院
ライティング:小林拓水
企画・編集・インタビュー:市川敦史(株式会社Reproduction


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