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昭和→平成→令和で保育の仕方が変わってきている

今年は令和3年。西暦表示が多くなって元号を意識することが減ってきているけれど、時代による保育の移り変わりについての私の見解を書いていきたいと思う。

自分が受けたり学んだりした幼児教育は平成で、昭和についてはイメージしかないし、令和の保育もこれから確立されていくのだと思うけれど、ここでは一保育士の私のイメージで、時代による保育の移り変わりを書いていくことにする。

列に並んでほしいとき

S先生
「まっすぐに並びなさい!」「〇〇ちゃん、はみ出しているよ」と注意する。
できる子が普通、できない子は叱られて当たり前。
H先生
「まっすぐにならんでほしいな」「まっすぐ並べている〇〇ちゃんかっこいいね」
私メッセージで話し、できる子を褒める。
R先生
「まっすぐに並んでほしかったけど、並びたくないのかな?」「そんな気分の日もあるよね。並ばなくていいか」
並びたくない気持ちに寄り添う。
なぜ並ばないといけないのかを考え直す。

よく考えると意外と並ばなくてもよいことだったりする。

例えば、絵本を見るとき、壁に沿って並んで座るとどの子もよく見える。けれども、本当に大切なことは「どの子も絵本が見えること」で、きちんと見える位置に座っていればそれでいい。なんなら端っこの子は立っていたっていいと思う。だから、私は立ち上がる子には「そこで立つと他の子が見えないから、立ちたいなら、端っこで見てね」と言う。子どもが「その場所で見たい」を選択するなら他の子の「見る」を確保するために座ってほしいが、「立って見たい」を選択するなら場所を変えればいいと思う。

並んでほしいとき。それは本当に並ばなくてはいけないのか、冷静になって考えなおすことも必要かもしれない。

給食

S先生クラスのルール
標準量を残さず食べることが前提。
時間がかかっても全部食べるのがルール。
H先生クラスのルール
苦手なものは残してもいい。あらかじめ減らしてもいい。
一定量を全部食べるのが前提で、そこから引き算方式。
R先生クラスのルール
食べられる量を食べる。残してもいい。
ただし、子ども一人ひとりの食べられる量を把握して盛り付けてあり、苦手なものははじめから少ない。

まだ味覚が未発達な時期なので、前に食べられなかったものが食べられるようになっていることは、よくあること。食べず嫌いもあるので、苦手なものも全く食べなくていいとは思っていなくて、少しは食べてほしいという願望も含めてほんの少しだけ盛るようにしている。

大人になって、苦手なものが出てきたら、罪悪感を持ちながらも残したり、(コロナ禍以前なら)一緒にいる友人に手を付ける前に「苦手だから食べて」と言うこともある。大人になると苦手なものを苦手とオープンにできるし、苦手なものから逃げることも許されている。
子どもにもその権利はあると思う。

大人の都合や願望を必要以上に子どもたちに押し付けていないだろうか。

方法ではなく目的が何なのかをよく考える時代が来ている。

昭和の時代にもR先生のような保育をする人はいたと思うし、残念ながら令和になってもS先生のような保育をする人もいる。それはそれで人の多様性というものに触れる機会なのかもしれないけど、令和に育ち、その先の時代を生きていく子どもたちにどんな声かけをしていくか、どんな環境を用意するか、意識しながら関わっていきたいと思っている。


※S先生、H先生、R先生のイメージはフィクションで、あくまで一保育士の頭の中の先生です。

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