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お金とコーチング 〜 恐るべき見えない宗教

コーチングコンテンツって、
見ての通りものすごく増えてるのですが、
もちろん全部が良いものとは限りません。

コーチングだろうが、
コンサルティングだろうが
マーケティングだろうが、
結局は人です。
扱う人のIQ、クライアントへの想い遣りが全てです。

他者への礼儀や優しさが、
相対化されずに滲み出ているかどうかです。

ある有名な建築家の講演料が、
200万円 or 無料だと聞いたことがあります。


これが相対化しないということだと思います。
この方は本当にどっちでも良かったのではないでしょうか。

例えば、無料でコーチングする覚悟と、
200万円でコーチングする覚悟は、
全く同じものです。

宣伝でなくファクトですが、
私が行う苫米地式コーチングは、
無料体験でも実際に効きます。
クライアントの表情を見れば一目瞭然です。
料金をいただいてやる時と何ら変わりありません。
双方本気で行った場合には、
返報性の原理により、
有料より強く効く可能性だってあります。

私たちが生きる現代社会には、
根底に「契約の概念」があります。
これはキリスト教における「神との契約」のことです。
神との契約のもとに加護と禁忌が生まれる社会であり、
人間どうしの世界も神と人間の契約に倣って作られていきます。

聖書の中に、キリストが市場で激怒し、
両替人相手に大暴れする場面があります。
司祭が通貨発行券を握り、商人たちが媒介することで、
お金が神を超えて絶対的存在にすり替わるのに激怒したわけです。
(※一部記載を訂正しました)

キリストの奮闘(?)も虚しく、
本来、汎神的であったはずの西洋宗教は、
神を絶対的権威として利用した支配者たちが、
通貨発行券を銀行家たちに渡したところから、
お金という絶対性に変化し、世界中に広がって、
あらゆるコミットメントに入り込んでいきました。

つまり私たちが「止まれ」の標識で止まるのは、
交通規則があるからで、規則というのは、
キリスト教がなければ日本にもありえない概念なのです。

戦前までの日本人の根底にあったのは、
「〇〇だから〇〇してはいけない」というものではなく、
「ならぬものはならぬ」のように、
相対化されてない、いわば「戒」と言えるものです。

先に書いたように、神はお金にすり替えられて、
あらゆるところに宿っているのが現代です。
つまり、ぼんやり生きている時の私たちは、
基本的に「お金教」に入信しているのと、
同じ状態になっていると言って良いかもしれません。

つまり、IQを向上し、意思を持ってお金教を排除しない限り、
何をやってもお金教の布教になる可能性があるという事です。

私はこの不気味さを、
感覚的に理解しておきたいと思います。
お金教を排除せずにコーチングを行えば、
小さな理論の綻びから、
お金を主体に回っている歪んだ世界が垣間見え、
反吐が出るほど違和感のあるものになります。
実際に、そういったものが多く見られます。

私が最近嬉しかったのは、
上のようなことを申し述べたときに、
苫米地式やタイス式のコーチばかりでなく、
外部のコーチや、各種コンサル、マーケターの皆様からも、
賛同の声をいただいたことです。

善き人たちは源流のコーチングに限らず、
さまざまなところに、探せば必ずいます。
そういった人たちは必ず、
目的を達成したいと思っているあなたの役に立ってくれます。

私はクライアントから識別しやすくするためと、
開発者に敬意を込める意味で、
「苫米地式」の看板を掲げているだけで、
最終的にクライアントの皆さんが判断する材料は、
私というコーチが自分をどのくらいゴールに導いてくれそうか、
ということに尽きます。

「苫米地式」というツールも、
あくまで私の能力上で起動するプログラムです。
ちなみに私は20年以上詩を書いていますが、
詩人のマトリックスでは、
苫米地式は快適に動作します。

詩は言葉で空(くう)に昇りつめる試みです。
言語で非言語をめざすのですから、
当然と言えば当然です。

これを逆向きに実装すると、
お金の謎も解けて行きます。
お金も空(くう)、全ては縁起のなかにあります。

もしお金を大きく稼ぎたいのなら、
他者のためにその姿勢を抛ってしまうのが、
一番の近道であるといえます。








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