バレンタイン=恋愛イベントという固定概念はゴミ箱に捨てよ
小学生くらいの頃、バレンタインはとても憂鬱なイベントだった。女子だけど。
バレンタイン当日。クラスメイトの意識が高い?女子たちは、学校へいそいそとチョコレートを持ってやってくる。
いわゆる「友チョコ」というもので主に女子同士で渡しあうのだが、これがまた厄介なのである。
基本的にみんな手作りだったが、まったくお菓子作りになど興味がなく、当然手作りチョコなど持ってきてはいない私にも、問答無用に友チョコは配られる。
全然要らない手作りのチョコを。良かれと思って。
「ホワイトデーにいい感じのやつ返してね」という無言の圧力を3月14日までかけ続けられるようで、本当に憂鬱だった。
もう面倒だからやりたいやつ同士でやれよと。ママに市販のやつ買ってもらうから、私はそっとしておいてくれ。
義理チョコなのにお返しはしっかり期待される男子の気持ちが、少しわかった気がした。
* * *
長らく友チョコ文化にゲボ吐きそうだった私(汚)にも、バレンタインの甘酸っぱい思い出はある。高校生の時だ。
2年ほどけなげに片思いしていたSくんという男子がいたのだが、今年はどうしてもチョコを渡したい。でもみんなに見えるところは恥ずかしい…という、なんとも乙女なモジモジくんになっていた。
そこで考えたのが「下駄箱にチョコを入れておく」という、まあ少女漫画チックというか、青春爆走してんな!というアイデアだった。今思い返すとこちらも十分恥ずかしい。
無事に隠密行動に成功し、Sくんに「下駄箱見てね」と報告。
後日私のあげたチョコの紙袋を部活で使っていたとのことだったので、ちゃんと受け取ってもらえたことはわかった。ものすごくうれしかったが、片思いである。
そしてホワイトデー。Sくんからメール。「下駄箱見てね」なんだと!?
ドキドキしながら下駄箱を見に行くと、何か入っている!
小さな箱だ。震えながら開けると、そこにはト音記号の形のネックレス。
まさかの人生で初めて男子から貰うアクセサリーに、興奮を抑えきれなかったのを今でも覚えている。
ここまでしてくれたのに、二度ほど彼に告白してもOKにはならなかった。そして数か月後に彼女が出来たことを人づてに知った。
結局最後まで片思いの、甘酸っぱい青春だった。
* * *
社会人になってお金を持ち始めると、「そんなことより自分用!」と自分のためのチョコを求めるようになる。ご褒美ご褒美~と自分を甘やかすボーナスタイムである。
バレンタインの恋愛的要素は薄れ、「自分用の豪華チョコが集まる年一開催のフェス」くらいの位置づけになった。
無理矢理手作りの友チョコを貰うこともないし、自分で好きなものを好きなだけ買える。お金があるというのは幸せだ。
しかし、昨年と今年は久しぶりに「好きな人にチョコを渡す」というバレンタイン本来のイベント趣旨に乗り切れていたりする。
自分ではない人のことを考えて選ぶ時間もまた楽しい。自分用にも引き続き買うので出費がかさむが、まあいい。
愛は惜しみなく与えるものだ。
* * *
昨年までのバレンタインは自分用にずっと爆買いしているだけかというと、実はそうでもない。
恋愛的要素が薄まっていたのはそうなのだが、近年は特にお世話になっている方々への感謝的要素もかなり濃くなっていた。
クリスマスや誕生日にあげるのは何となく重いし、かといってなんでもない日も…というところで、バレンタインというライトな文化はとても重宝している。
2月中旬というのも、人事が発表されて異動される方もチラホラわかり始めるちょうどよい時期だった。
「大変お世話になりました」という感謝を、チョコというかさばらない消費物で突然伝えても違和感のない日。
バレンタインこそ日頃の感謝を伝えるのにベストだというのが、近年の私の考えである。
もちろん相手に合わせてチョコをワインや酒の肴に変更するなど、別のものにしてもいいだろう。
要らないものを貰うと思うと「友チョコの悪夢」が頭をよぎるので、甘いものが大丈夫かどうかくらいは事前にリサーチしてから渡してほしい。
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いくら愛を惜しみなく、感謝も惜しみたく与えたいと自分があげたいものをプレゼントしても、それは単なる「押しつけ」である。
貰う側の気持ちを考えたとき、それは初めて愛や感謝として受け取ってもらえる。
憂鬱であり、青春であり、自分用であり、愛や感謝を伝えるものと、年齢を重ねるにつれて印象や役割を変えてきたバレンタイン。
「バレンタインなんてチョコレート会社の戦略やん」と邪険に思う人もいるかもしれない。でもせっかくの機会を上手く利用できると思えば、バレンタインも悪くないものだよ。
単なる「恋愛イベント」としておくには、バレンタインはもったいない。
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