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麻婆豆腐に学ぶ。

昨晩、マーボーを作っていて豆腐も春雨も切らしていることに最後の最後で気づいた。

んで、マーボーという名のソースだけが出来上がった。
別に特段 豆腐が食べたいわけでも春雨が食べたいわけでもないのだが、いざマーボーソースだけでごはんと一緒に食べることを想像すると何か、いや、絶対に違うなという感覚があった。

どうして豆腐・春雨が必要だったのか、とか、どんな役割があったのか、とか、ここから思考がどんどん広がって、建築とか暮らしとか経済にまで飛躍したりしながら次のようにまとまった。

❶薄味の必要性
❷食感の必要性
❸中核の必要性
❸料理の必要性
❹不必要の必要性


❶ 薄味の必要性

1つは豆腐や春雨は味が薄いということ。濃い味のマーボーとは真逆の薄味具材が中和している。中和というよりもはや調和だ。カレーにはジャガイモやニンジンが入っていて、さらにごはん、うどん、パン、ナンと一緒に食べる。もちろんこれは元々は順序が逆で、味が薄いものを食べやすくするために味の濃いもので誤魔化す役割なのだろうが、もはや二つで一つの関係であることは違いない。

白飯のような美術館のホワイトキューブにアートを飾るように。シンプルで無地の服装に自慢の衣類を合わせるように。ハレとケ、都会と田舎。濃味と薄味のように地味なものと派手なものは対立しているようで相互に補完しあって共存している。


❷ 食感の必要性

2つ、豆腐や春雨はドロっとしたソースに少し近い食感を持ち合わせている。ナスも同じだ。噛んだ時の食感グラデーションがたぶん心地いいのだ。同じ価格で、同じ味、同じ栄養が取れるとすれば、シチュエーションにもよるが、ほとんどの場合普通はドリンク型・栄養補給型の食事ではなく、食感のある普通の食事を選ぶ。

木目調・大理石調のプラスチックとか、オシャレ風のインテリア、形骸化した仕組み、視野の狭い合理性や機能主義、デジタル化したモノはどこか、リアルではあった歯ごたえ・感覚がない。本来の機能的には変わらない、それどころか優れているけど、できれば無垢材がいいし、できれば薄っぺらなキーボードではなくて押し心地の良いタイピングができるキーボードを自然に求めている。


❸ 中核の必要性

3つ、ソースをからめる・纏う核としての豆腐・春雨。雨が塵を核として水を形成するように、原子核にある中性子のように、ただ纏うために存在している。マヨネーズもふりかけも、纏って初めて料理となる。1つ目と似た結論にはなるが、ソースと具材はニコイチなのだ。

類推するなら、
ソースは理論
具材は現実だ。


❹ 料理の必要性

4つ、マーボーの中にあるなんでもない豆腐や春雨という具が実は大事だったことに気付かされたのだがこれは突き詰めれば、ひき肉や唐辛子、にんにく、しょうが、醤油、豆板醤、甜麺醤、鶏ガラ、ごま油、花椒などなど、結局全部大事だ。あとは、それらをどれくらい入れるのか調合し、どういう順番で炒めたり処理したり調理し、調和のとれたものに完成させるか、この料理の過程が一番大切で難しい。

昔、春雨をわざわざ別の鍋で茹でる意味が理解できなくてマーボー側の鍋一つで作ったことがある。見事マズいベチャベチャな麻婆春雨ができあがった。。昔、どこかで見た写真、トータルで数十万円の服装・数万円の服装・数千円の服装の比較があって、服の値段でオシャレかどうかは決まらないことを理解した。。最近、サッカーを見るようになったのだが、名だたる選手・高額な移籍金で獲得したよい選手を揃えたチームであっても監督や戦術次第で試合に勝てないということが分かった。素材が良くても料理・コーディネート・デザイン、名前はなんでもいいが、総合的にまとめた時にダメになる場合もあるし、逆も然りということだ。


❺ 不必要の必要性

5つ、必要・不必要の線引きは人の価値観・基準で変わってくるので、正直なところ不必要・無駄の必要性を説くことはできない。必要性が小さいからこそ不必要になるのだから、その他の必要の必要性には絶対に優らない。頑張って❶〜❸で説いてみた必要性も、誰かにとってはちっぽけなことで不必要に仕分けられるかもしれない。それでも、もう頭ではなくて、豆腐とか春雨がないとダメだと感じてしまっていた。結局、好き嫌いの話に帰着する。


という訳で、豆腐・春雨に代わるものを探して
最終的にうどんをぶちこんでいた。

見栄えは悪いが、悪くなかった。

けどやっぱり豆腐か春雨がベスト



P.S. 麻婆豆腐で2000字近く書いてしまった。なんしとんやろ。


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