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エッセイ お湯をポットに。お昼どきの珈琲。



かける


 今日はオフの日。
 心身充電の日。
 午前中は、なーんにもせずにだらりと過ごした。

 適当に選んだ、アイロンもかけていない襟付きのボタンシャツを肩に突っかけ、袖ぐりに腕をつっこむ。
 外出の予定はないはずだから、これでいい。
 ついでに、電気ケトルに水をためてスイッチを押した。

 パソコンの電源を入れ、動画サイトを開く。
 タイトルを確認もせず、目についた再生リストを反射で左クリック。細く深く、息を吐いた。
 少しして、ケトルがフツフツと唸り出す。

 昨日まで働き詰めで、夜遅くまで波立っていた気性も、夜が明けるとウソのように凪いでいた。

 人間の持つ本能的なストレスコントロール機能とはたいしたもので、良かったコトも腹が立つコトも、ほどよく薄めてくれる。
 この調整力を無意識にうまく働かせることで、私たちは私たちの気持ちを明日へと向けることができているのかもしれない。

 なんて、自分が言いきれるワケもないのにね。



沸く


 最近、教養を創作的おもしろさに転換する試みが流行っているようで、言語学や哲学や生態学を冠におきつつゆるく語り合うという番組が、動画投稿サイトやラジオ配信サイトでもユーザーの耳目を集めている。

 で、私はその中でもゆるく哲学を語るラジオを選び、動画サイトで放送中のそれをかけ流していた。
 ふいに、ベルクソンというフランスの哲学者の名前を耳にする。
「ベルクソンやるんだ。すご」
 聴きながら、一昨日届いた観光雑誌の『VISA』をぱらぱらとめくっていた。俳句特集だった。珍しい。
 虚子の句を目にする。

流れ行く 大根の葉の 早さかな

高浜虚子

 狭くなだらかな川。
 その川面をゆらゆらと流れていくといった在り様が浮かぶ。
 大根が冬の季語と知ったのは後に調べてからのことで、それを知っていれば、寒い日の朝というような、より細やかな情感も味わえたのかもしれない。
「わりと好きだな」
 なんて、思いながらページをめくったところに、ベルクソン。
 パーソナリティが淡々と解説していた。

鹿威しはなぜ風流なのか。
それは遅延ガジェットであり、それが意識につながっているからだ。

ゆる哲学ラジオ 「意識」って何? 哲学者が出した驚きの答えは◯◯ #85

「へぇ」

 私の手が止まる。
 止まった反動で、後ろに流していた髪が垂れてきたから、人差し指で耳に掛け戻した。

 ベルクソンというのはフランスにかつていた哲学者で、ざっくり言うと、時間や空間の在り様についての智をひたすら考察し、言語化しおおせて後世に智を託した男だ。

 ふと本棚の方に目をやると、ベルクソンの訳本や、日本の学者による入門書が数冊目に留まる。
「懐かしい、とか言っちゃいけないわ」
 うめきながら読んだ本もあれば、未だインテリア以上の効能を発揮できていない本も、もちろんあった。

 動画からは、ベルクソンを話題にしたときによく聞く、遅延やら反射やら意識やらクオリアやら、そうしたワードが流れてきた。
 すると、それにひかれるようにして、学生時代の……クオリアを扱う哲学ゼミに紛れ込んでいた頃の記憶が、ふわっとやってくる。


鳴る


 当時の私は法学部に在籍していた。
 が、肝心の法学は必修以外そこそこに、般教パンキョー……俗に言う一般教養科目をかじり歩いていた。
 その流れで私は、意識について討論するという珍しい哲学ゼミにたどり着き、門戸を叩く。
 細かいエピソードは今回省くのだけれど、居心地がよくてそのまま二期入り浸った。

 結局、その時の哲学ゼミで受けたクオリアの話が、学生時代に最も印象に残る講義となり、その余波は今も続いている。

 私の、「文章で景色を描く」という、情景描写や余情の質感を文章で探求したいという欲求の発端は、ここからだった。
「また読んでみるかなァ。先生の ajiro トークイベント、行けなかったし」
 恩師の名が載る本を手に取る。
「……するすると思いが起こってくるよね」
 意識自体に目が向くようになったのも、クオリアを知ってから。

 今だってそう。

 ラジオでパーソナリティがベルクソンを語っていた。
 私はそれを聞いている。
 すると記憶が浮かび、私に返ってきた。
「これも、遅延?」
 なんて、透き通るティーポットを手に取りながらひとりつぶやく。

 そうして意識の遅延テーゼごっこに興じていたら、ボツボツと音を立てていた電気ケトルがパチンと鳴った。
 お湯が沸いたらしい。


淹れる


 沸かしたばかりの湯をステンレスのケトルにうつした。
 銀の口がフワフワと湯気をあげて一息つくと、温度は10℃ほど下がる。
 一息ついている間にペーパーフィルターのはしを折り曲げた。
 手元には、木皿に乗る挽いた珈琲豆レギュラーコーヒー
 焼き立てパンを思わせる香ばしい匂いを鼻でゆっくり楽しむ。

 とりたててわけもなく、指の腹でステンレスポットに触れた。
「あっづっ……!」
 当たり前ながら、刺すような熱が伝った。
 なぜ私は繰り返してしまうのか。

 気をとり直し、無言でケトルの取っ手を掴んで傾ける。
 注ぐ音が部屋に渡り、珈琲の香りが立った。
 しばらく、蒸らす。
 それから、何度か注いで眺めてを繰り返した。

 このひとときが、かなり好き。

 この瞬間の私は、どのように在るのだろう。
 考えると考えないの間で、穏やかにまどろんでいるような、ふしぎな心地に浸りながら、珈琲の香りをただただ楽しみつつお湯を注いでいた。

 モニターに流れる哲学動画は、変わらずベルクソンのクオリアをアテにゆるく盛り上がっている。かつてかじった領域に重なる共感もあって、楽しく聴いていた。
 ドリッパーの上に白く筋ばった湯気があがっている。
 そのか細い香りの筋は、鼻を通り、喉から食道を抜けて腹に渡った。

 と、浸っていたら。
 どうやらこのベルクソン回。件の恩師が監修したらしい。
 思いがけない展開に吸った珈琲の香りがぜんぶ吹き出てしまった。

 淹れた珈琲を口にしつつ、
「……よし」
 数年ぶりに、先生にメール出すか。
 動画に高評価を付した形跡を確認したのち、画面はメールの受信ボックスに移る。






あとがき


こんにちは。
ななくさつゆりです。
いかがでしたか。
最近、ゆる教養系の動画を楽しく視聴しています。

ちょうど先日、オフの日に引きこもって珈琲を淹れていたら、動画に当時お世話になった先生の名が出てきて珈琲吹き出たので、誇張しつつ一本書き下ろしました。
なので実際に吹き出してはいません。

ただ、私が情景描写にこだわり、景色を描くように文章を紡ぎたいと思ったのは、ことばにおける余情のありかというものに強い関心を抱いているからで、その発端は当時の哲学ゼミで聞いたクオリアが発端になっているのは確かなことで、それはどこかに書き留めておきたいなと思ったのもあり、回想をまじえて今回のエッセイに含ませました。

私は、文章表現でたまに見かける「得も言われぬ感情」や「名状しがたい想い」といった言い回しを極力使いたくなくて、むしろその中身を詳らかにしたうえで好い感じのヴェールを纏わせることにおもしろさを覚えます。

と、言うのはまたどこか別のところで語るかもしれないとして。
(この手の私の内実みたいな話は、あまり掘り下げない方がいいような気もしている。)
ただ、これにまつわる“言外の情趣”といった話なら、いつか『文学のハイライト』でやるかもしれません。



ともあれ。

コーヒーチケットをひとつ。』は、今日のように日々の情景に飲み物を添えたショートエッセイです。


砂糖を溶かす間にさらりと読めるような、そんなお話を書いていきます。
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前の飲み物:
透きとおる泡。炭酸が鳴る。

次の飲み物:
 

今日もここまでお読みいただき本当にありがとうございます。
よい一日を。





オフの日のおすすめ記事


そのとき見ていたゆる哲動画

いつも楽しく拝聴してます。(サムネイルのインパクトすごいですね)


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