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天敵彼女 (23)

 俺は、部屋の隅でずっと膝を抱えていた。

 毒母が出て行って、父さんも部屋に閉じこもってしまった。

 既に、ここに大人はいない。

 料理も洗濯も俺一人ではできないし、もうどうしていいか分からなかっ
た。

 時間だけが虚しく過ぎていく中、だんだん空腹が気にならなくなっていっ
た。いっそこのままでもいいと思い始めていたが、そろそろ我慢の限界だった。

 俺は、出来れば動きたくなかったが、トイレに行った。

 食事をとろうとは思わなかったが、喉が渇くのだけは我慢できそうになかった。

 仕方なく、台所に行ってみたが、冷蔵庫に飲み物は残っていなかった。
俺は、水道水を飲んだ。何か買いに行こうと思ったが、そもそもこの家のどこにお金があるのかも知らなかった。

 もう完全に詰んでいた。

 何もかもどうでも良くなった俺は、一切部屋から出ない事にした。

 ひどく時間がゆっくり進んでいるように感じた。気を抜くと涙が出そうだった。

 このまま何日過ごせばいいのだろうと思っていると、突然知らないおじさんとこの前のおばさんが家にやって来た。

 俺が玄関を開けると中に入って来て、父さんの部屋をこじ開けた。外されたドアの隙間から部屋の様子が見えた。

 何だか現実とは思えなかった。おじさん達は、何か叫んでいた。

 俺も必死で駆け寄り声をかけてみたが、父さんは誰の呼びかけにも反応しなかった。

 おばさんがひどく動揺し始めた。私のせいだと喚き続け、手が付けられなくなった。

 知らないおじさんは、携帯を取り出したが、周りが騒がし過ぎて電話をするのを諦めてしまった。

 父さんの部屋は、完全にカオスな状態になり、俺はどうしたらいいのか分からなくなった。

 立ち尽くす俺に、今日初めて来たおじさんがおばさんと一緒にここにいてくれと言った。

 それからしばらくの間おじさんは姿を消した。おばさんはまだ泣き続けていた。俺は、おばさんに声をかけることが出来なかった。

 父さんは相変わらずぐったりしていた。このままいなくなってしまう気がして、俺も泣きたくなった。

 それからしばらくしておじさんが帰って来た。少し落ち着きを取り戻したおばさんは、おじさんに謝罪。それから二人で何やら相談を始めた。

 俺は、何だか聞いちゃいけない気がして、遠巻きに見ていた。

 だんだん声が大きくなる二人。おじさんの提案をおばさんが突っぱねている感じがした。何度か「施設」という言葉が聞こえた気がした。

 俺には、何を話をしているのかよく分からなかったが、本来そこまで縁があるとも思えない二人が、俺の事で頭を悩ませている感じがした。

 俺は、何だか申し訳なくなり、顔を上げることが出来なくなった。

 父さんは、しばらくは元気になれないだろう。その間、俺はここで一人きりになるのだろうか? それとも慣れない場所に行く事になるのか?

 どちらにしても自分で決められる部分は少なそうだ。

 俺は、気が付けばまた部屋の隅で膝を抱えていた。

 それから、おじさんが玄関先に出ていき、ヘルメットを被った人を何人か連れてきた。

 その人たちは救急隊員だった。

 担架に乗せられ搬送されていく父さんは、本当に虚ろな目をしていた。

 救急隊員が一緒に来るかと聞いてきたが、俺は行かなかった。

 また家が静かになった。俺は、自分の部屋に戻った。それからしばらくの時間が過ぎた。

「ねぇ」

「ご飯だよ」

「立って」

 誰かが俺の手を引っ張った。

「お母さんのご飯美味しいよ」

 俺は、薄暗くなった部屋で久しぶりに顔を上げた。

「良かった。動かないから心配したんだよ」

 この前の女の子だ。

 確か、おばさんの娘だ。

「行くよ。お腹空いてるでしょう?」

 急に廊下に出た俺は、眩しくて目を閉じた。

 ずっとカーテンを閉め切った部屋にいたせいだろうか? ちょっとした光
にも俺の目は耐えられなかったようだ。

「眩しいの? 大丈夫?」

 女の子が立ち止まった。このまま手を引かれ続ければ階段落ち不可避だった為、ちょっとホッとした。

 俺は薄目を開けた。いつもの廊下だった。まだ少し眩しかったが、何度か瞬きしている内に目が慣れてきた。

「じゃあ行くよ。良い匂いがするでしょう?」

 俺は、無言で頷いた。

 そこからどうやって階段を下りたのかは覚えていない。少し足元がふらついていたが、転んだりはしなかった。

 気が付けば俺はダイニングテーブルの前にいた。

「お母さん、連れてきたよ」

「ありがとう。もう出来るから一緒に待っててね」

「分かった。ほら、座って」

 女の子が俺を椅子に座らせた。良い匂いがした。

「お待たせ。食べようか?」

「うんっ! じゃあ、いただきます言うよ」

 女の子に強引に箸を持たされ、俺は仕方なく手を合わせた。

「じゃあ、いただきます」

 俺は、口元を動かしてみた。多分、声は出ていなかったと思う。しばらく
呆然としていたが、その内女の子が俺の鼻先に何か押し付けてきた。

「ほら、食べなきゃだめだよ。食べなきゃ倒れちゃうよ!」

 女の子が目に涙をためていた。

 俺は、女の子からスプーンを受け取った。

「おいしい」

「良かった。しゅん君食べたよ」

 女の子が嬉しそうに微笑んでいた。おばさんも笑っていた。

 俺は、鼻をすすった。

 あれから随分経ったが、その時食べたものは未だに俺の大好物だ。

 俺は、玄関のドアを開けた。

 家の中から誰かの足音がした。

「おかえり」

「うん、ただいま」

 俺は、ダイニングに向かった。あの日、俺の手を引いてくれた女の子が目
の前にいた。

 今日は疲れた。

 でも、勇気を出して良かった。

 俺は、奏に手を引かれ家の中に入った。

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