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天敵彼女 (73)

「確か、峻の家に行ったのは二度目だった。おじさまと連絡が取れなくなって、すごくお母さんが心配してたのを覚えてる。私は、子供は見ない方がいいと言われて近寄れなかったけど、救急車が来たり色々大変だった。お母さんは、しばらく大人の人と話し合った後、私の所に来た。あの子は、たった一人になってしまった。誰も世話をする人がいない。これからお母さんと一緒にここに来ることになるけど良いかと聞かれた。私は良いと答えた。その時、お母さんが言ったの。どんなに仲良くなっても、峻君に家族の事を聞かないでって……峻は、何か言われた?」

「いや、何も……」

「そっか……私は、どうしてなのか分からなかったけど、お母さんのいう事を聞くことにした。それから、峻もうちの事を聞かなかったし、私も峻の事は聞かなかった。あの時、お互いの話をしていれば、もしかしたら一緒にいられなかったかもしれないね」

「そうかもしれないね。当時は、まだ色々整理が出来てなかったしね」

「うん……それからは、色々あったよね。私の学校が終わったらお母さんと一緒に峻の家に行って、峻と一緒にご飯を食べたよね。その内、体調が少し回復したおばあさんが、峻の家の方が大きな病院に通いやすいからって、同居してくれたんだよね。おばあさん、住み慣れた家を離れて、田舎から出てきてくれた。本当に良い人だったよね」

「うん、おばあちゃんには世話になったよ」

「それで、時間に余裕が出来たお母さんが働き始めて……それからも私たちはお互いの家を行き来していた。おじさまも結構時間がかかったけれど、退院して仕事にも復帰した。おばあさんは何度もお母さんにおじさまの事を頼んで田舎に帰って行った。おじさまは、本当に優しい人だった。時々調子が悪そうな時はあったけれど、いつも穏やかだった。色々あったけど、私達と峻とおじさまで、楽しくやっていた……そんな時だったの。あの人から親権変更の訴えを起こされたのは」

 俺は、驚いて奏の顔を見た。奏は、乾いた笑みを浮かべていた。恐らく、それは俺が毒母に対して抱いているのと同じ感情だと思う。

 毒母も、縁さんの元夫で奏が「あの人」と呼ぶアノ人物も、俺達の人生にかけられた呪いのような存在だ。人生がうまくいきかけると、どこからともなく現れて、人の生活を滅茶苦茶にして去っていく。

 俺は、奏にそんな事があったのを知らなかった。自分で自分が許せなくなりそうだった。

「いつ? もしかして、去年?」

「うん……しばらく峻に会えなくなったのは、あの人のせい。あの人、お母さんの事業が順調になると、急に復縁を迫ってきて……でも、お母さんはあの人とやり直すつもりはなかった。すると、今度は私に自分の所に来ないかと言い始めた。当時は、一応月に一度面会してたから……」

 一瞬にして、沢山の疑問符が浮かんだ。アノ人物には、散々人の家に毒を巻き散らかして出て行った例の人がついていたはずだ。

 それなのに、縁さんと復縁? 娘を引き取りたい? 何を今更? あ〇まおかしいんじゃないのか? 俺には、異次元の発想過ぎて理解が追いつかなかった。

 こういう場合に必要なのは、情報交換なんだと思うが、俺は奏とはこの手の話はしてこなかった。

 当然、ヘタレた俺に核心を突く質問など出来るはずがない。結局、いつものように微妙にお茶を濁した受け答えに終始した。

「縁さんが駄目なら、次は奏って……何だか勝手だね」

「うん……最初は、面会の時に妙に優しくしてきたり、プレゼントをくれたりだったんだけど、その内お母さんの悪口を言い始めて……ある日、遂に私も我慢できなくなって、もう会いたくないって言ったの」

「それで会わなくて済むようになったの?」

「相変わらず、メールや電話はしつこかったけど、面会はしなくてよくなった。でも、あの人って平気で嘘をつくから、思春期の私があの人の言葉を誤解して、面会時に喧嘩してしまった。そんなつもりじゃなかった。仲直りしたいと伝えて欲しいとお母さんに泣きついて……お母さんは、何となく事情を察してくれて、私が嫌なら会わなくていいって言ってくれた。それでも、しつこくメールが来て、最後は学校の帰りに待ち伏せして泣き落とし……このままだと学校にも来そうだった。もう顔も見たくなくなっていた私は、お母さんにあの人との会話の録音を聞いてもらった。お母さんは、すぐに学校に相談してくれて、それからはあの人に何を言われても私が会いたくないって言ってるからと突っぱねてくれた」

「そうしたら、親権の変更の訴えを起こされたって事?」

「うん、ここからは余り気分のいい話じゃないけど……あの人は、今度は興信所を雇って、勝手に私とお母さんの身辺調査をしたみたい。すると、私達が峻達と会っている事が分かって……私が峻やおじさまに変な事を吹き込まれたせいで、良好だった父娘関係が破たんしたと言い出したの。娘は元妻やおじさま家族に洗脳されている。これは、最悪の養育環境で、このままでは私が心配だと、家庭裁判所に親権変更の調停を申し立ててきたの」

「……知らなかった。俺達が一緒にいた事で、そんな事になってたなんて……」

「気にしないで。あの人がおかしいだけだから……でも、私達と峻達の関係は、世間では理解されない部分がある。だから、おじさまが親権の問題が落ち着くまで、少し距離を置いた方がいいと……弁護士さんも、お母さんとおじさまが真剣に再婚を考えているのでもなければ、今までのような家族ぐるみの付き合いは控えた方がいいって……こちらにやましい事がなくても、実父から訴えを起こされている状態で会い続けると、調停員の心証が悪くなるかもしれないからって……」

「大変だったんだね……何かごめんね。俺、何も出来なくて……」

「気にしないで。私の家の問題に峻を巻き込みたくなかっただけだから……また、あの人がおじさまや峻に何かして、峻の家族がバラバラになるようなことになったらと思って……」

「確かに、父さんにとってトラウマの塊のような相手だしね……それより、よくそんな粘着系の人が親権を諦めてくれたね」

「……正直、すごく面倒だった。お母さんは、当時大きな仕事も抱えていて、本当に大変だったと思う。結局、調停では話がつかなくて、審判までする羽目になったから……でも、最終的には私の意思が尊重されたの。私、家庭裁判所で身勝手な理由で他人を振り回すあなたは、私の家族じゃないとはっきり言ったの。私はお母さんと一緒にこれからも生きていくから、これ以上私達を振り回さないでって!」

「それは、すごいね。もしかして、本気でキレたりした?」

「うん……多分、人生でトップスリーに入ると思う」

 当時の事を思い出したのか、奏の目が少し細くなった気がした。

 俺は、思わず絶句した。普段、冷静で理知的な奏がこういう表情をするのは非常に珍しい。

 多分、思い出し怒りのような状態なんだと思うが、これはまだ第一形態だ。ここからだんだん目が座って来て、最後に一瞬冷たく笑うと、奏は「奏さん」になる。

 アノ人物の事を俺は良く知らないが、これまでの経緯から、自分勝手で何でも都合よく脳内変換するタイプのクズ野郎な気がする。

 そんなクソポジティブ人間が、実の娘にうかつに手を出せなくなる程ショックなことがあったのだとすると……俺は、初めてアノ人物に同情する気になった。

 多分、俺には「奏さん」の真似は出来ない。毒母と対峙したら、何も言えなくなって固まってしまうだろう。

 仮に、裁判所が未成年の奏が話しやすいよう最大限配慮してくれていたにせよ、トラウマの元凶とも言える存在と対峙出来たのは本当にすごい事だと思う。

 例え、出て行ったきりのうちとは違い、奏とアノ人物に面会実績があったとしても、その後決定的に関係がこじれて裁判にまでなった訳だ。発言のハードルはとことん上がっている。

 奏は、どれだけの勇気が必要だった事だろう。それでも、奏は不当な干渉を自分自身で跳ねのけたのだ。

 さすが「奏さん」だ。怒りのパワーに突き動かされていたにせよ、なかなか出来る事じゃない。

 俺は、あの眼で詰められるのは無理だ。とにかく勘弁して欲しい……などと考えていると、一瞬「奏さん」と目が合った気がした。

 もちろん、奏は怒ってなどいない。むしろ、一生懸命自分の話をして、俺に伝えようとしてくれていた。

 多少の思い出し怒りはあったものの、それは俺に向けられたものじゃないのは分かっている。

 とにかく、俺には奏を怖がる理由などない。

 でも、俺は奏から怒りを感じ取ってしまった。それは、きっとアノ人物の話を通じて、毒母を連想してしまったからだろう。

 俺は、急に心が不安定になるのを感じ、よせばいい言い訳を始めた。

「ご、ごめん。黙り込んだのは、そういう意味じゃないんだよ。あの人がさ、そこまで酷いことをしたんだと思って、俺も腹が立ってさ……とにかく、よく頑張ったね。奏は本当にすごいと思うよ」

「……ありがとう。そう言ってくれると、何だか嬉しいよ」

 奏が悲し気に微笑んだ。それから何となくお互い話さなくなって、部屋が静まり返った。

(ふぅ……)

 奏が大きく息を吐いた。まだ緊張が解けていないようだった。きっと、さっき話してくれたのは、奏にとって簡単な事じゃなかったんだと思う。

 俺は、奏の前でちゃんと自分の話が出来るだろうか? それには、まだまだ乗り越えなきゃならないものがある気がした。

「今日は、一生懸命話してくれてありがとね。俺も、奏に追いつけるように頑張るよ」

「うん……」

 奏は、今度は嬉しそうに笑った。俺は、奏に微笑み返そうとしたが、また胸がざわつくのを感じ、思わず目を反らした。

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