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クオリアと人工意識

今回は、茂木健一郎著『クオリアと人工意識』に基づいて、意識について学びます。タイトルは人工知能の誤植ではなく、人工意識です。

茂木氏の師匠である伊藤正男氏のさらに師匠にあたる師匠さんが、シナプスにおける情報伝達のメカニズム、とりわけ「抑制性シナプス」の研究で1963年にノーベル生理学・医学賞を受けたオーストラリアの神経科学者、ジョン・エックルスだった。

エックルス氏は、電極を脳に刺し、神経細胞の活動を拾う「電気生理学」という、神経科学の中でも最も王道となる、しかし地道で手堅い分野の研究者であった。

ところが、哲学者のカール・ポッパーと対話した『自我と脳』で、心と脳は独立の存在するとういう考え方を展開した。 

エックルスの考えによれば、心は脳と独立した存在である。そして、心は、物質である脳に作用する。その作用の場所は、神経細胞と神経細胞を結ぶシナプスである。ここにおけるプロセス、とりわけ、量子力学的な効果を通して、心は物質である脳に作用する。これが、人間の「自由意志」のメカニズムである……。

茂木健一郎. クオリアと人工意識 (講談社現代新書) (p.206). 講談社. Kindle 版.

茂木氏の考えによれば、自由意志を意識の中核においてとらえることは、とかく「主観」や「自意識」などに偏りがちな意識に関する議論を、より現実的で、物理的、客観的にとらえられる側面へとつなげてバランスを回復する上で大きな意味がある、と言うことです。

 「私」が「私」であるという「自己意識」(self-consciousness)の問題は、意識において最も重要な問題の一つであることは疑いない。意識の現象学に沿って考えれば、「私」が世界にいることだけは疑えないが、他のすべては仮説に過ぎない。  このような立場から、いわゆる「独我論」(solipsism)の哲学を展開する論者もいる。

茂木健一郎. クオリアと人工意識 (講談社現代新書) (p.207). 講談社. Kindle 版.

その論者として、ゴルギアス、デカルト、バークレー、永井均たちなどを取り上げている。

独我論を含めた「自己意識」をめぐる議論は大いに結構なことであるが、それだけでは意識に関する議論のテーブルに科学を乗せることはできない、というのです。

この箇所に触れるまでは、現象学の祖であるフッサールの師匠であるブレンターノの「志向」の概念を取り上げていたので、現象学に詳しい、と思っていただけに、椅子から落ちそうになりました。

現象学については、ポストモダン思想、分析哲学などから、悪しき観念論、意識主義、主観主義、独我論であるという批判を受けている、と現象学者竹田青嗣氏は述べている。

現代の現象学批判を、「客観認識」 「厳密な認識」の基礎づけの学、とになしている。つまり現象学は、絶対的に正しい「客観認識」あるいは「真理」の基礎づけの学である、というのだ。だが、これは明白な誤解である。わたしの考えでは、現象学の主張は、むしろ、「絶対的な客観認識」や「真理」は存在しえないが、「妥当な認識」(つまり普遍的な認識)は存在しうる、という点にある。

『はじめてのフッサールの「現象学の理念」』
P6~P7

竹田によれば、現象学に対する、通念的な解釈であるということになる。柄谷行人の現象学解釈にも同様の批判していたので致し方ないことだと思っている。

とした上で、茂木氏の「意識」に関して30年間も研究してきたことに対して、リスペクトしているので、以下に記述します。

表象とは何か?

表象という言葉には、英語とドイツ語にはニュアンス上で大きな違いがあるというのです。

英語の「representatinon」の場合には、もともと何かがあって、それを再び(re)「表現」するというニュアンスがある。

それに対して、ドイツ語のVorstellungの場合には、「前に」(Vor)「置く」(Stellung)というニュアンスあり、つまり何もないゼロから立ち上げて、あるイメージが自分の意識の前に現われるというニュアンスになる。

意識は、表象を通して、「0」を「1」に変えて「前に」 「置く」のである。

具体的には、心の中の「机」の表象は、外界にある「机」を「再び」 「表現する」結果として生まれるのではなく、「0」を[1」に変えて「前に」 「置く」結果として生まれているということです。

これは、フッサール現象学的還元、つまり外界物をいったんエポケー(0にして)内面に取りこむ(1にする)と解釈できる。

英語圏で主流である「分析哲学」は数学や論理学との結びつきが強いので、意識研究は科学主義に立脚しているが、より根源的で「底が抜けた」世界からの立ち上げを目指すドイツを中心とする大陸系の哲学もまた必要とされる、と茂木氏は述べる。

きっちりと、英語圏のみの意識研究の危うさを指摘している点は合意できます。

言語と意識

現在の人工知能の多くは、意識を直接的には扱っていない。なぜだろうか?
ここには、主観的な立場と客観的な立場には乖離が関係している。主観側は、意識が伴っているが、客観的な立場からは、意識は必ずしも必要ないように見えるからだと言う。とにかく、現状の人工知能研究は、主観に伴う意識の問題を回避しているそうです。このことを、茂木氏は問題視している。

創発 

2022年5月8日に投稿した「意識の謎」についてで創発という概念を記述しましたが、茂木氏も扱っています。

創発とは、システムも構成が複雑になっていくに従って、例えば「生命」や「知性」、そして「意識」といった属性が「創発」するというものです。
創発という概念は、この世界で実際に起こっていることの概略としては限界あるものの、適切な出発点であると思われる、と述べている。

自由意志

脳の物質としてのふるまいは、数式で記述できるが、「赤」や「冷たさ」といったクオリアはとても数値化できるものではないので、科学的にアプローチするのは困難となる。

クオリアは、デイヴィッド・チャーマーズが言うところの意識の「ハードプロブレム」の核心である。

クオリアは重要であるが、生きものとしての適用度に直接関わるのは、「自由意志」である。どのように選択し、行動するのか、その柔軟さと自由さが生物学的に見た意識も最も重要な属性である、ということです。

もっとも驚いたのは、小林秀雄のベルクソン解釈によると、記憶は脳に残るのではないというものでした。

ベルクソンの『物質と記憶』の中に記されているというのです。小生も、これを読んだが、ーーもっとも読んだとは言え、理解したかどうかは、怪しいものですーーそうしたことが記されていたのかどうかは記憶にございません。 

記憶自体は、脳がなくても残っていて、脳はそれを引き出すきっかけに過ぎないと。もし、記憶自体を「外套」だとすると、脳は、その外套を引っ掛けておくための壁に打たれた「釘」に過ぎない。釘である脳がなくなっても、記憶そのものは外套に残る。ベルクソンは、そのように記憶のことを考えていたのだと小林は熱く語る。

茂木健一郎. クオリアと人工意識 (講談社現代新書) (p.254). 講談社. Kindle 版.

現在の科学主義の立場からすれば、記憶は脳にあるものというのが常識であり、脳の外にあると言われると戸惑ってしまうだけです。

茂木氏も、ベルグソンと小林氏は何を言いたかっただろうかと訝かっています。
『物質と記憶』では「純粋記憶」という概念を打ち出している。

記憶には、2種類あり、第一の記憶は、習慣的なものです。例えば昨日の晩ご飯は何食べたというようなものです。

第二の記憶が純粋記憶であり、過去の経験を「イメージの痕跡」として留め、過去を表現するものです。大学に合格したときとか、結婚した日とかの、ありありと思いだせる記憶のことである。

クオリアと人工意識

「ビッグデータ」に基づく「統計」的な学習で知性を高めていこうとする今日の人工知能研究の前提、戦略そのもの中にある限界と脆弱性がある、と茂木氏は考えている。

ビッグデータ」を元にした「統計的」アプローチが前提にしているのはそのような時間的、空間的、身体的限定を離れて、自由に「アンサンブル」を定義してその解析をするという方法論であり、それは「写像」概念を通して普遍的な数学的真理に到達するということには役立つかもしれないけれども、それを「今、ここ」の「私」の「意識」に結びつけることには直結しない。

むしろ本質からは離れてしまって、暗い所で鍵を落としたのに明るい所で探すことになりかねない。そこには「身体性」がない。  だからこそ、「クオリア」の科学的究明や、「人工意識」の可能性ということに常に留意しておくことが必要である。それが、私たちの身体性に錨を下ろす唯一の道だからだ。

茂木健一郎. クオリアと人工意識 (講談社現代新書) (p.275). 講談社. Kindle 版.



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