苫野 一徳(著)『 「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 』      「自由」とは何か

苫野 一徳(著)『 「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 』に基づいて、「自由」とは何かについて学びました。

第三章 「自由」とは何か  
「自由」 は 今日、 多く の 疑念 に さらさ れ た 概念 だ。それゆえ現代思
 想は、今これに代わる理念を模索している。

「自由」の 本質 など あり 得 ない、 それ は 多義的 かつ 操作 可能 な 概念
 である、というのは、現代思想の常套句だ。
 しかし、言語の多義性・操作可能性は織り込み済みの前提であって、わた
 したちはその上でなお、その本質を明らかにすることができる。


・ヘーゲルの「自由」論
 ・神を前提とした形而上学?
  ヘーゲル哲学の基本的な構え、それは、人間は絶対精神
  (神)の精神を分有しており、これを歴史を通して実現し
  ていくものだ。

  しかしこれは、検証不可能な物語というほかないものだ。わ
  たし たち が 本当に 神 の 精神 を 分有 し て いる のか どう
  か、 いや、 そもそも絶対精神なるものがあるのかどうか、わた
  したちは決して知りえないからだ。


・超保守主義?
 ・ヘーゲルの生きていた時代は、専制国家プロイセンにおいてで
  ある。 
 ・したがって、検閲の目をかいくぐる必要がある。
 ・自由主義的な著作を公にすることは不可能であった。
 ・公とならない、大学での講義録は、刊行された『法に哲学】
  君主権の礼賛も国家主義的な表現はない。
 ・以上から、ヘーゲルは、「自由」の哲学者と考えるべき。

・「自由」の第一契機
 ・意志は、いっさいを度外視する 絶対的 な 抽象 ない し 絶対的 な 普遍
  性 という、 無制限 な 無限 性 で あり、 自己 自身 の 純粋 な 思惟 で
  ある。

  これは、こういうことだ。
 「自由」の第一契機は、一切 の 束縛 から 解放 さ れ て いる こと に あ
  る。 そこ において、 わたし たち は どんな 制限 からも解放されてい
  る。

  「意志」の「意志」たるゆえんは、それがわたしたちの「自由」を「意
  志」するところにこそある。

・「自由」の第二契機
 ・「自由」たろうと欲する「意志」を持った「自我」は、その「自由」
   が、先に見たように一切の制限から解放にはないことに思いいたるこ
   とになる。そこでそこで「 自我」 は、 実は 自身 が いかん ともし
   がたく「 規定」 さ れ て いる の だ という こと を、 自覚 せ ざる
   を 得 なく なる。そうヘーゲルはいうのだ。
 
  ・わたしたちを規定する最も根本的なもの、それはわたしたちの「欲
   望」それ自体である。


  ・さらに、こうした 欲望 の 複数 性 の ため に、 わたし たち が 絶対
   的 な 無 規定 性・解放 を 手 に 入れる こと は あり 得 ない の だ。


「自由」の本質
・わたしたちは、確かに常に諸規定性の中に投げ入れられている。しかし そ
 の 上 で、 それでも なお「 規定 さ れ て い ない」 と 感じ られる 時 が
 ある。わたしたちが「自由」を十全に実感するのは、その時だ。

・諸規定性を自覚した上で、できるだけ納得して、さらにできるなら満足
 して、「生きたいように生きられている」という実感をもつことだ。
 
 ・日常における「自由」の感度
  たとえば、大きな目標を達成した時に感じる「自由」がそうである。
  そこにいたるまで、わたしは自らに多くの制限を課してきた。目標 達成
  の 欲望 それ 自体 が、 大きな 規定 性 でも あっ た。 しかし 努力 の
  甲斐 あっ て ついに 目標 を 達成 し た 時、 わたしはそうした制限・規
  定性を大きく乗り越えた、「自由」の実感を抱くことができるのだ。

 ・恋愛における「自由」の感度
  恋愛はわたしたちに、何か至上のものを見出せたというこの世ならぬ喜
  びを与え、そしてそのことで、日常の諸規定を瞬時に乗り越えさせるか
  らだ。恋愛の本質、それは、「自己ロマンの投影」と、そしてこのロマ
  ン・憧れを現実世界に見出した喜び、さらにはこれを、手に入れられる
  かもしれない、手に入れられたいという喜びなのだ。

  しかし、恋は、自らが彼岸において理想的に積み上げてきたロマンを、
  此岸において見出した喜びだ。それはつまり、本来であればこの世には
  あり得なかったもの、すなわちある種の絶対的な規定性を乗り越えた喜
  びなのだ。

・人間的欲望の本質は「自由」である
  ・ヘーゲルの自由の本質の洞察の仕方は、
   わたしたちがいったいどのような時に「自由」を感じるのか、何をも
   って「自由」という言葉をわたしたちが口にするのか、ということに
   ある。
  ・ヘーゲルによれば、人間精神とは、
   「わたしという存在に対する意識を持ったものを、言う。そしてわた
   しが私自身を意識するのは、必ずその「欲望」を意識している時であ
   る。」という。

・「幸福」の本質としての「自由」
 ・幸福とは何か?
   それは基本的には、わたしの「欲望」が叶うことである。そしてそれ
   が人間的な「欲望」であればあるほどその「 欲望」 が 達成 さた
   時、 その 底 には 必ず「 自由」 の 実感 が ある。


   確かに 「 幸福」 の 本質 は「 自由」 に ある が、しかしわたしがこ
   れらの言葉を区別して使用している以上、「自由」の概念と「幸福」
   の概念には、やはり一定の相違がある。

   それは、「自由」が基本的には人間的な欲望の達成において使われる
   言葉であるのに対して、「幸福」は、人間的な欲望の達成だけではな
   く、比較的動物的な欲望・快楽の達成においても使われるという点
   だ。

   いずれにせよ、わたしたちは確かに「幸福」を求めるが、その本質
   は、それが人間的な「欲望」であればあるほど、「自由」にあるとい
   うことができる。

   もっとも、欲望が叶うこととはまた違った形の「幸福」もある。
   わが子を抱いた時、わたしは世界の中心点が、わたしから子どもへと
   譲り渡されるのを感じる。それは「愛」の一つの究極形だが、それは
   またある意味においては、わたしという存在への囚われからの完全な
  「自由」であるともいっていい。

   そこにおいて、わたしはもはや何らの主体的欲望をも持っていない。
   いわば純粋な「自由」を、ただ感じているだけである。
   宗教的幸福や芸術的幸福も、ある意味ではこれに近い幸福といえるだ
   ろう。

   何か崇高なもの、超越的なものと一体になったと感じた時、わたし
   たちは自我を超え出た、純粋な「自由」を感じることができるのだ。

・感度としての「自由」
 ・「自由」はある特定の状態のことではない。これは極めて重要なポイン
  トだ。
  というのも、「解放の状態」や「恣意の状態」に限らず、どれだけ「自
  由」といわれる状態に身を置いたとしても、わたしたちがその中で本当
  に「自由」を感じられるかどうかは、全くもって別の問題である。

  自由の本質は特定の状態にではなく、わたしたちの感度にあるのだ。
 「諸規定性における選択・決定可能性」の感度、これこそが「自由」の本
  質なのだ。

 「自由」の感度とは、「自由」の実感や感覚と同じであり、これには必ず
  程度、すなわち度合いがある。どの程度の「自由」を求めるかは人それ
  ぞれだが、しかしいずれにせよ、わたしたちはこのような度合いをもっ
  た「自由」の実感、すなわち「自由」の感度を求めざるを得ない。

・ヘーゲルの社会理論
 ・承認のための、生死を賭する戦い
  ヘーゲルは次のように言う。
  ・わたしたちが本来的に持ってしまっている人間的「自由」への欲望
   は、まず「承認欲望」の形をとる。
  ・わたしたちは承認を欲する者として、まず原初的には、わたしの
   「自由」を他者に絶対的に承認させようと努める。
  ・これは「承認のための生死を賭する戦い」へと行き着かざるを得な
   い。
  ・自らが「自由」な存在であることをより強く自覚する契機は、主よ
   りもむしろ奴の方にある。
  ・奴は、課せられた「労働」を通しても、自らの「自由」を深く自覚し
   ていくことになる。

 ・「自由の相互承認」とは何か
   ヘーゲルはいう
   ・主が「自由」であるためには、実は奴の「承認」が不可欠なのだ。
   ・自分は「自由」だとただナイーブに主張し合うのではなく、相手が
    「自由」な存在であるということ、「自由」を欲する存在であると
     いうことを、まずはお互いに承認し合うこと。
   ・そしてその上で、互いの「自由」のあり方を調整し合うこと。これ
    以外に、凄惨 な 命 の 奪い合い を 終わらせ、わたしたちが「自
    由」を手に入れる道はない。


・どうすれば「承認のための戦い」を終わらせ、自らの「自由」を獲得する 
 ことができるのだろうか?
 ・ヘーゲルによれば、それは、「自由の相互承認」の原理である。
 「自由の相互承認」は、わたしたちの人間が共存するための、そして一人
 ひとりができるだけ十全に「自由」になるための、社会の根本原理なの
 だ。

・歴史の終わり?
  当然のことながら、人間の歴史そのものが 停止 する こと は あり 得
  ない。 しかし、 もしも わたし たち が「 承認 の ため の 生死 を 賭し
  た 戦い」 の 歴史 を 終わら せ たい ので あれ ば、そのための根本条件
  は、まず何をおいても「自由の相互承認」の原理を共有し、これに基づ
  いて社会を作っていくほかないのだ。

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