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柄谷行人(著)『力と交換様式』キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教、イエス、モーゼ、マルクス、エンゲルスなどについて。

柄谷氏は、あとがきに述べているいるように、『世界史の構造』を2010年に刊行以後も、これを捕捉するような著作(『哲学の起源』、『帝国の構造』、『遊動論ーー柳田国男と山人』、『憲法の無意識』など)を刊行してきたが、いずれも交換様式Dについて、十分に論じていなかったこと、さらに、その他の交換様式A,B,Cについても、再考する必要を感じて、本書を刊行した、ということである。

柄谷氏としては、交換様式A,B,Cがもたらす観念的あるいは霊的な「力」についても、考えたということです。霊的となると、スピリチュアル、オカルトなどと、トンデモ話しとなりがちだが、柄谷氏の説明に触れると、いつものことながら、なるほどと、納得せざるを得ない。

下記に、私なりに、注目した箇所を羅列します。

・社会構成体は、A,B,Cの交換様式の結合体としてあり、どれがドミナントであるかによって、歴史的段階が区別される。そして、Dは、Cが支配的となる資本主義社会のあとで出現するような社会の原理だといってよい。しかし、それはたんに生産力が進んだ段階で出現するようなものではない。Dはいわば、BとCが発展を遂げた後、その下で無力化したAが”高次元”で回復したものだ。注目すべきなのは、それがすでに古代において出現したことである。(p159)

・彼らが唱えたのは、要約すれば、荒野に帰れ、ということである。それは、原遊動性の回帰にほかならない。そして、それが交換様式Dの到来といってよい。
(P163)

・この帝国(ペルシャ帝国)は、1神教的なゾロアスター教を奉じながら、人々の信仰を強制はしなかった。たとえば、キュロスは、多数の神々を祀る万神殿(パンテオン)を作った。また、ユダヤ教徒をバビロン捕囚から解放し、パレスティナに帰還してエルサレムに神殿を作ることを許した、このようなやり方が、その後、ペルシャ帝国を滅ぼしたアレクサンダー大王からローマ帝国、さらにはモンゴル帝国にいたるまで、帝国の範例となったのである。その意味で、ゾロアスターが初めて世界帝国を可能にしたといってもよい。(P166-167)

【私見:古代人ながら高貴なキュロス王に比べると、なんと、近代、現代世界の指導者たちの品性のなさが、際立つことよ。いわんや、安倍元首相にいたっては・・・・】

・ヴェーバーは、ソロモン王のころ、”エジプト”とは「専制国家」の典型を示すものであり、ゆえに、”出エジプト”とは、エジプト呈な専制国家に転化しつつあった状態からの脱出を象徴的に意味するという説を紹介している。つまり、”出エジプト”は、イスラエルの民のエジプトからの脱出という出来事を指すだけではなく、イスラエルの民がパレスティナで王国として隆盛していた時期を批判的に見る隠喩でもある。

したがって、「出エジプト記」には、原遊動性を保持していた民が、エジプト的な専制国家となってしまったことへの批判が込められている、といってよい。(P170)

・イスラエルの預言者たちは、国家すなわち交換様式Bの支配下で失われた原遊動性を、回復しようとしたのだ。そのときDが出現した、といってよい。しかし、彼らはそのことを意識して行ったのではない。むしろ、Dは彼らの意識に反してあらわれたと。Dは自己から脱するのではなく、強迫的に到来するがゆえに、見通すことも理解することもできない。

旧約聖書では、預言者たちがしばしば、自分がしていることの意義がまったく分からず、苦しんだり途方にくれたり逃げだそうとしたりする姿が描かれている。モーゼも当初は、使命を拒もうとした、預言者とはまさに、そのような人たちである。(P174)

・また、「マルコ」からは、つぎのようなことも読みとれる。イエスは大工であった。彼の父ヨセフも同様である。つまり、彼らは祭司でも農民でもない、遊動的な工芸人であった。そして、イエスが最初に選んだ弟子は、ガリラヤ湖で網を打っていた四人の漁師である。《わたしたちについて来なさい。人間をとる漁師をしよう》。漁師は多くの点で、遊牧民と類似する。モーゼが遊牧民を率いたようにイエスは漁師を率いたのである。

そして、彼らはイエスの下で、牧師というより、むしろ”人間をとる漁師”となった。イエスと弟子(使徒)たちが遊牧民でであったことはいうまでもない。したがって、原始キリスト教は、原遊動性とその回帰(終末)という問題と切り離すことができないのである。(P178)

・フーコーがいう「国家機関より下層の別の次元に、それとある程度独立した形の大きな権力装置」それが何か。彼はそれ以上論じなかった。ゆえに、これは、たんなる比喩としてしか受けとれないだろう。しかし、われわれの観点からいえば、それは、国家の「力」が、経済的下部構造、といっても、生産様式ではなく、交換様式から来るというほかならない。(P251)

フーコーが「国家機関より下層の別の次元」に見出した「権力装置」とは、交換様式Cの優越化の下で変容したBなのだ。それが意味するのは、資本家階級と国家権力の結託というようなことではなく、近代国家と近代資本主義が分かちがたくつながっているということである。(P252)

【私見:ここ約3年間の、政権のコロナ対策を、振り返ってみると、国家権力である厚生省医系技官と資本家階級の財界や医療機関とが分かちがたくつながっていたという様子が、まざまざと見えてくる。】

・晩年のマルクスとエンゲルスは違った方向に向かったようにみえる。たとえば、一方は古代社会へ、他方は原始キリスト教へ。しかし、交換様式の観点から見ると、彼らが同じ問題、すなわち、資本と国家を揚棄した共産主義社会の可能性を追求していたことがわかる。

たとえば、マルクスは『古代社会』、すなわち交換様式Aが優位にあった社会を考察し、共産主義がそこにあったものの、”高次元での回復”として見るにいたった。それは、生産力の尺度から社会史を見る史的唯物論とは異質なものであった。

一方、エンゲルスは、本来の共産主義を、原始キリスト教にあった”何か”を回復するものとして見た。これも、彼自身が唱えた史的唯物論、あるいは「科学的社会主義」とは異質であった。このとき、エンゲルスは共産主義を、生産様式からではなく、事実上交換様式から見ていたのである。すなわち交換様式Dの実現として。(P371-372)

・では、国家や資本を揚棄すること、すなわち、交換様式でいえばBやCを揚棄することはできない のだろうか。できない。というのは、揚棄しようとすること自体が、それらを回復させてしまうから だ。

唯一可能なのは、Aにもとづく社会を形成することである。が、それはローカルにとどまる。B やCの力に抑えこまれ、広がることができないからだ。ゆえに、それを可能にするのは、高次元での Aの回復、すなわち、Dの力によってのみである。

ところがDは、Aとは違って、人が願望し、あるいは企画することによって実現されるようなもの ではない。それはいわば“向こうから、来るのだ。 この問題は、別に新しいものではない。古来、神 学的な問題、すなわち「終末」や「反復」の問題として語られてきたことと相似するものである。

つ まり、「終末」とは、Aの“反復” いいかえれば、 Aの“高次元での回復”としてDが到来する、 ということを意味する。 マルクスはこの問題を 神を持ち出さずに考えようとしたといってよい。

しかし、彼が初めてそう したのではない。 マルクス以前にも、それを考えた者がいた。 カントである。彼は社会の歴史を、自 然の「隠微な計画」として見た。つまりそこに、人間でも神でもない何かの働きを見出したのである。 そして、彼はそれを自然と呼んだ。だが、そこに謎が残ったままであった。

私の考えでは、自然の「隠微な計画」とは交換様式Dの働きを意味する。たとえば、カントが「永 遠平和のために」 で提起した 「世界共和国」の構想は、 人間が考案したものにすぎないように見える 。その意味で、交換様式Aと類似する。

したがって、無力である。ゆえに彼の提案した国際連合は、以 来二世紀にわたって、つねに軽視されてきた。 しかしそれは、消えることなく回帰してきた。今後に もあらためて回帰するだろう。 そして、そのときそれは、AというよりもDとして現れる、といって よい。

そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもた らす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、"Aの高次元での回復〟としてのDが 必ず到来する、と。
(P395-396)

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