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ヘーゲルの精神現象学について(再掲と追記)

2023年8月30日にヘーゲルの精神現象学についてをすでに投稿していますが、このときはケアについてのみに絞ったために、相互承認については省きましたので、今回はそれを追記します。

斎藤氏は、マルクスの著書で、ベストセラーとなり有名となった方ですが、何故か、ヘーゲルの解説本を刊行し、かつNHKテレビ番組「100分de名著」でも出演して解読していたことに、違和感がありました。マルクスはヘーゲルの弟子であり、マルクスを理解するためには、ヘーゲルの哲学の理解が不可避であると説明していたことで納得しました。

ヘーゲルといえば、弁証法となりますが、斎藤氏によれば、「自分の知が否定されるような矛盾に耐えて考え抜き、悪いところは棄て、良いところは残しつつ、より高次の知を生み出していく」と定義づけることできる、と述べています。

とはいえ、SNSを見ても分かるように、Aの意見とBの意見は、完全に対立していて、統合するどころか、分断しているのが実情だ。特に、アメリカのトランプ派とバイデンプ派【現在バイデンは辞退してハリスとなっている】では、内戦が突発するのではないかと思われるほどになっていて、取り付く島もない状態になっている。

これがヘーゲルを悩ませた難題であった。そして、『精神現象学』で辿り着いた答えが、「相互承認」というわけです。

この「相互承認」とは、互いの良さを認め合って仲良く生きていきましょうとか、多様性を尊重しましょうという話ではない。

そもそも、『精神現象学』という本は、「意識」という主人公がいて、これが段階ごとに「自己意識」、「理性」、「精神」、「絶対知」へと駆け上がり、素朴な若者が、社会で揉まれていって、徐々に賢くなっていくという教養小説のような構成となっている。

ヘーゲルは意識を三つのタイプに分けている。

  1. 意識:狭義の意識は「対象意識」とでもいうべきものである。意識は、①感覚的確信ー②知覚ー③悟性という順番で進む
    ①感覚的確信ーーーこれが意識経験のスタート地点でありいわば最低次の意識である。「これ」とか「あれ」とかの指示語でしか表現できない。
    ②知覚ーーーさまざまな諸性質をもった物として認識するものである。
    ③悟性ーーー目のまえにある具体的な物を対象としない。物に宿る普遍的な性質を見出そうとする。

  2. 自己意識:自己意識は、自分の外なる対象ではな く、もっぱら「自己」を意識する。そして、自己の自立性と自由とを実現しようとし 他者や自然に関わっていく。

  3. 理性:理性は対象意識と自己意識との統一であって、対 象や世界は自己と深くつながっていると確信している意識である。

「自己意識」という章で、「主奴の弁証法」で「相互承認」が展開されている。

動物は、お腹が空いたという欲望が発生したら、すぐに餌に食いつくが、人間は状況を見て、欲望を我慢することもできるので、ヘーゲルは、こうした反省する意識のあり方を「自己意識」と呼んでいる。

動物的欲望を乗り越えた自己意識は、自分はいよいよ自立した存在だと確信し、それを現実に証明したいと考える、ということです。

自分が自立を望むなら、他者も当然それを望むこととなり、そこで命がけの争いが勃発する。争った結果、勝った方が主(主人)となり負けた方は奴(奴隷)となる。これが「主奴の弁証法」の始まりとなる。

ところが、ヘーゲルは、自立しているかのように見える主人は、奴隷の労働と奉仕に依存しきっていて、その反対に、主人に依存しているかのように見える奴隷は、労働を通じて、何もかも自分で作りだすことができるということを曝露するわけです。

つまり、主奴の関係に逆転が起きていて、見方を変えると、主人のほうが依存的で、むしろ奴隷のほうが自立的な存在であることが判明する。このように自立と依存という真っ向から対立する二つのものを統合していく思考法を弁証法というわけです。

さて、こうしたヘーゲルの思考法を現代に応用しているのが、斎藤氏の、独特な解釈だと思われる。この主人を、企業の男性経営者に当てはめている。見かけは、自立しているようでいて、社員や秘書の献身的な労働に依存し、家庭では、食事、洗濯、育児、介護などで家族やケアサービス依存していて、非自立的な存在である、と述べている。

さらに、こうした男性経営者的なモデルを称揚し、社会制度もそれに合わせて設計されていると言う。つまり、男性的自立を「本質的」なものとし、ケアワークや奉仕活動は「非本質的」なものとして評価が低められていて、その結果、賃金や社会的ステータスにも歴然と現れている、というわけです。

当方は、約18年間介護界に、関わってきましたが、賃金の低さは、相当なものでした。賃金を上げるには、利用者の負担を増やすことになり、利用者数が減少するという、ジレンマを抱えていて、どうにもならないという絶望感がありました。

賃金を上げようという、アドバルーンは良いのですが、具体的な案を提示するのは、極めて困難です。ひたすら、良心的な経営者の温情にすがるのも手ではあるが、そうした経営者はいるのでしょうか?

少なくとも、当方がかかわってきた、経営者は、そうした温情があるどころか、極めて不鮮明な経営ぶりでした。あげくには、姿を消して逃げてしまい、デイを閉鎖に追い込んだような人物でした。そんな中、約18年間も続けることができたものだと、感心しています。話しが脱線しましたが、案外、このことを書きたかったかも知れません。

ここまでは、前回投稿した内容ですが、ここからは、「自由の相互承認」を追記します。

現代社会にはさまざまな分断があります。新型コロナウィルスのワクチンをめぐる対立、ロシアのウクライナ侵攻に端を発した分断、ハマスのイスラエル攻撃によってイスラエルの過剰な報復攻撃についての意見の対立、アメリカ大統領選挙に関わる対立などと枚挙にいとまがありません。

いずれの場合も、相反する二つの立場が相手を悪と非難し、対話の余地するないような状態に陥っています。そして、SNS上では、痛烈な批判の応酬が飛び交っています。

すると、アメリカでは、ハリス派とトランプ派、日本ではネトウヨ派とサヨクという、同じ考えを持つ者同士で集まって、仲間内の世界に閉じこもることになっています。

こうなると、ヘーゲルが名づける「教団」化した人々は、意見の異なる人たちとは交わりも議論もせず、自分が安住できる場所で、自分に聞きたい話ししか聞かないようになる。

つまり、私たちが見ているのは個々の「自分にとって」の世界である。私たちは神のように無限の知があるわけではなく、あくまで有限ながらも自分なりに洞察し、判断し、行為する私たちの集団は、どのようにして、ヘーゲルのいう「自由の相互承認」が得られるのだろうか?

個人は「生きたいように生きたい」という「自由」への欲望を抱えている。ところが、他者も同様の欲望を持っている。

こうして、双方の欲望同士がバッティングする。すると、相手側にこちら側の欲望を強引に認めさせようとする。

しかし、結局のところは、相手が認めるわけがないので、「承認のための生死を賭けた戦い」は、非残な命の奪いあいとなる。それは、現在行われている「ロシアーウクライナ戦争」や「ハマスーイスラエル戦争」を見ても、自明なことである。

だとすれば、必要なのは、意見が違う相手との対立を前にして、自分の主張に固執するのでもなく、かといって、一方的に論破するのでもない自覚的な態度です。つまり、自己批判することが必要だとヘーゲルは考えているのです。

以上を踏まえて、ヘーゲルは「良心」をキーワードとして考えています。ヘーゲルが言う良心とは、相互承認の精神のことである。お互いを認め合う精神のことであり、ここに人間精神の最高境地があるという。

良心の心境に到達した人間は「事そのもの」を目指すようになる。「事そのもの」とは、芸術・学問といった文化的な表現の領域と考える。音楽や文学の何らかの作品に出会って、「これぞほんものだ!」と思うようなとき、最高の自由を感じる。

この良心をヘーゲルは、次のように、二つに分けて対立させる。

  1. 行動する良心:正しいと思ったことをそのまま具体的に行動しようとする、いわば素朴な正しさの意識である。例えば、貧困問題を無くすことこそが、自分にとって事そのものだと考えて、他の人々にも投げかけて、この問題に取り込もうと、すぐに行動する人のことを言う。

  2. 批評する良心:行動という具体的場面に踏み込む代わりに、ひたすら正しさの普遍性を理論的に吟味しようとする良心である。たとえば、貧困問題に取り組んでいる行動する良心に対して、名誉欲からとか、目立って、皆から認められたいからではないのかなどと、冷や水を浴びせかけるようなこと。

お互いに良心を掲げているにも関わらず、対立しているのです。そこで、この対立を解消するには、行動する良心側は、「自分も悪いところがあった」と自己批判して告白することだとヘーゲルは言う。

この告白に対して、批評する良側が、さらに批判を強める場合もある。こうなると不和の解消どころか、ぶち壊しとなる。

SNS上で見る限りでは、告白するどころか、お互い同士が批判しあいが延々と続き決別している。

こうならないためには、批評する良心側も「自分の行為も偽善だった」と自己批判して、相手側の告白に対して「赦し」を与えることで「自由の相互承認」が得られる、とヘーゲルは言う。

批評する良心も、批判はするが、ちゃんと相互承認を得られることを、考えているので、行動する良心と目指すところは一致しているわけだから、それに気づき、お互いに和解して、より高い良心にたどりつくことが必要であるとヘーゲルは主張している。

だが、現状をみれば、国際紛争やテロリズム、また領土問題など、現代社会には、今なお深刻な国際問題があふれている。

各国・各地域が、相互承認関係を築き上げることなく、自分たちだけの「自由」ーーー利得、権益、信条ーーーを押し付け合っているようでは、紛争がいつまでも続くことになる。

ハマスによるイスラエルへの襲撃事件から、10ヶ月以上経過したが、いつ終わるとも知れぬ戦争状態が続いている。

ヘーゲルの提示した原理は、正しいのだろうが、単に「絵に描いた餅」ということになっている。まさに、「人間の世界はきれいごとばかりではない」ということだろう。

「きれいごと」どころか、悪神がとりついている状態である。

本来であれば、国連は、こうした国際的紛争を停止させる機関であるべきなのだが、理事国に否決権を与えているようでは、まったくその機能を果たしてしていない。

停止させるどころか、火に油を注いでいる始末では、どうにもならない。泥棒を取り締まるどころか、他人の家にフリーで侵入できるようにと泥棒に鍵を与えているようなものです。

世界的な「自由の相互承認」の可能性について、苫野氏は下記のように述べている。

現代 の 資本主義 や 国家 を、 世界的 な「 自由 の 相互 承認」 を 可能 に し うる よう な 仕方 で、 わたし たち は 今後 どの よう に 構想 し 直し て いく こと が できる だろ うか?わたしの知る限り、その「原理」は、未だだれによっても説得的には明らかにされていない。

苫野 一徳. 「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 NHKブックス (p.208). NHK出版. Kindle 版.

可能性はないということであれば、取りあえずは、国連のような機関が、実際に戦争を停止できる機能があれば良いだけだ。そのためには、理事国の否決権を剥奪することだろう。

だが、国連設立のための条件として、主要戦勝国に、否決権を与えることだったという経緯があるので、それも困難だ。

どうにもならない、袋小路で彷徨うしかないようだ。国際的な世論で、否決権の剥奪と叫んで、盛り上げるしかないだろう。

SNS上では、戦争停止を否決したアメリカへの批判が高まっているから、まったく、不可能ということでもない。

問題なのは、こうした批判を、単に、反ユダヤ主義、反イスラエル主義だと捉える人々もいることだろう。このnote投稿者でクリスチャンを名乗っている人が、こうした見解を述べている。

アメリカのキリスト教福音派の人々が、そうした主張をしていることは聞いていた。が、日本人が同じ主張をしていることに愕然とする。

ナチスによって実際に迫害を受けた人々とその子孫の人たちが、反ユダヤ主義、反イスラエル主義に反対するのは理解できる。しかし、当事者でもない日本人が、なんでという思いである。

ナチスによる迫害と同様のことを現在パレスチナ人に対して行っているという事実には、向き合えないということか・・・・





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