ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ 『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂病』(5)読書メモ

第二章 第九節 プロセス
私 たち が 精神病 を プロセス そのもの と 呼ぶ か、 それとも 逆 に プロセスの中断と呼ぶかにしたがって、すべて変わってくる(そしてこれは、どのような種類の中断なのか)。プロセスとしての分裂症は欲望的生産であるが、それは限界における欲望的生産であり、資本主義の諸条件において規定された社会的生産の極限にある。

ここで次のプロセスの二つの方向が合流する。
①自分自身の脱領土化を果てるまで進める社会的生産の運動
②新しい大地に欲望を導き再生産する形而上学的生産の運動

分裂者は他の世界については語らないし、他の世界に属してもいない。たとえ空間の中を移動するとしても、それは強度の旅であり、その場に設置され、その場にとどまる欲望機械の周りをめぐる。

なぜなら、 まさに そこ が、 私 たち の 世界 によって 拡げ られる 砂漠 で あり、 新しい 大地 で あり、 う なりを あげる 機械 でもあって、分裂者たちは、新しい太陽をめぐる遊星たちのように、この機械のまわりをまわるからである。

分裂者はただ、狂人になることを恐れるのをやめたのである。彼はもはや彼を冒すことのない崇高な病としてみずから生きる。この 場合、 精神科医 は いかなる 価値 を もつ のか。 もち うる のか。 精神医学 全体 の 中 で、 ただ ヤス パース と その 次に レインだけが、プロセスが何を意味するのか、プロセスの完成とは何か、理解していたのだ。(だからこそ彼らは、精神分析と精神医学の温床である家族主義を逃れることができた)。

エンゲルスはすでにバルザックに関して、ひとりの著者がいかに偉大であるか示していたのだ。

なぜなら、自分自身の作品のカトリック的専制的なシニフィアンを引き裂き、必然的 に 地平線 に 姿 を 現 わす 革命 機械 を 育てる もろもろ の 流れ を 交通 さ せ、 流出 さ せる こと を、彼は自らに禁じえなからである。

文体とはまさにこのようなものである。あるいはむしろ、これは文体の不在、反統辞法、反文法なのだ。この とき 言語 は、 もはや みずから の 言う こと によって 定義 さ れる のでは なく、 みずから を シニフィアン に する もの によって は なおさら定義されず、むしろ言語を流れさせ、あふれさせ、爆発させるものーーつまり欲望によって定義される。

なぜなら文学とは、まったく分裂症のようなものだからだ。それはプロセスであって目標ではなく、生産であって表現ではないからだ。

作品が「文化的対象」となるのは、作品の内部における転向による、などといわれる。この観点からすると、精神分析を芸術作品に適用する余地はない。

なぜなら芸術 作品 そのもの が 成功 し た 精神分析 で あり、 集団 の 典型的 な 潜在 性 とともに 崇高 な「 転移」 を とげ て いる からで ある。

病気 は プロセス の 擬装 あるいは 戯画 に すぎ ず、 プロセス こそ が 真に 狂気 と 呼ば れる べき なのか、 それとも、 病気 の方が唯一の狂気であり、プロセスは私たちをこの狂気から癒すはずなのか、もはや私たちには分からない。しかし。いずれにしてもプロセスと病気の親密な関係は、直接に逆比例するとのとして現われる。

つまり生産プロセスがその流れを逸脱し、急激に中断されるなら、臨床実体つぃての分裂者はますます特別な産物として出現してくることになる。だからこそ、逆に、私たちは神経症と精神病との間に、どんな直接的な関係も確立することができなかった。

とき に プロセス は 罠 に はまり、 三角形 の 中 で 空転 する。 とき に プロセス は 自分自身 を 目的と考える。ときにプロセスは自分自身を追い続け、自分を完成するかわりに恐るべき悪化を招く。これらの形態のそれぞれの根底には分裂症がある。

プロセスとしての分裂症こそ、唯一の普遍性なのである。分裂症とは、壁であり、壁の突破口であり、同時にこの突破口の挫折でもある。

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