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録音していた放送大学を聴いていて、気づいたこと(2)

2023/01/15の投稿記事「録音していた放送大学を聴いていて、気づいたこと(1)」の続きです。

ホッブス
ホッブズによれば、感覚とは対象物体が感官に与えた圧力が頭脳と心臓に伝達されて生じる、外的実在に関する想像のことだとされる。

ところで、私たちの心には、眼前の対象が取り去られてもその対象についての意識が残るが、それが心象といわれる。

個々の感覚内容も心象も言葉に移し変えられる。この言葉の解釈が示すものは、ホッブズが徹底的に名目論の立場にたっているということである。普遍は名辞に他ならないとされる。

この名辞を操るのが理性である。そして、この理性によって学問が形成される。この学問は、生まれつきによって得られるものではなく、特別な努力によるものだとされる。

それゆえ、デカルトが言うように、自律した実体としての理性を出発点として設定するようなことではない。

ホッブズは、人間は放っておいたら「殺し合う」、「万人の万人による戦争状態」になるという。

では、いかにして平和を実現し維持するための原理は一つしかない。人びとが殺し合いをやめ互いのいのちを守れる、強力で絶対的な国家を創りだすことだ。

それには、まず。自然権=相手を殺す権利を放棄し、自然法=人間の理性によって導かれた一般法則に従おう、という。

この理性の声に従って、各人は、自分の自然権の一部を断念して、契約を交わし、法を作り、それに基づいて「国家」を作る決意をしたというのである。これが「社会契約説」という考え方である。

ロック
ロックの政治思想は、現代でも大きな影響を受けており、その哲学はイギリス経験論の源流となった。

経験論とは、あらゆる観念は経験に由来する、と言う。神から授かった「生得観念(生まれつきもつ観念)」はなくて、人間は経験と通してすべての観念や知識を体得するとロックは考える。

ロックによれば、私たちは、自分の心に目をを向ける時、すでに白さ、硬さ、甘さ、思考、運動、人間、象、国家等々についての観念を持っていることを見出す。それらが、生得観念ではないとすれば、ではどうのようにして、私たちはそれらの観念を持つにいたったのか?

そこで、ロックは、文字の全く書かれていない「白紙(タブラ・ラサ)」の状態の心というものを出発点として想定して、そこに私たちの持つ膨大な知識と知的な推理が書き込まれていくという説明を試みる。その際、これらの観念の唯一の源泉は感性的経験でしかないとする。

ロックによれば、自然状態においても個人は十分に理性的で勤勉的であった。したがって、労働によって自然から糧を得、それなりに平和に暮らしていたのである。それは、「自然法」というべきものが人々の心を支配していたからであった。

このように、ロックは、あえて「自然法」という概念さえ持ち出すが、しかし、同時に、この自然状態には不安定性がつきまとっていることも認める。

特に、多くの人間がともに暮らすようになると、人間同士のトラブルが生じるようになる。そうなると、それを処理するためにお互いの間で決まりを作る必要が生じてきた。そこで、個人間の「合意」にもどづいて、国家設立の契約を結ぶことになったというのである。

ただし、国家が抑圧的となった場合は、国家に預けていた主権を取り戻すことができるという「抵抗権」を行使して、契約を破棄することができるというものであった。

【私見:世界2次大戦で日本は焦土と化した反省から、もう2度と戦争しないことを決めた憲法を施行しているにもかかわらず、これを破棄する政策を、国民や国会に問うこともせずに閣議決定して、米国に報告するという、この乱暴な政府のやり方は、17世紀以前の専制国家並みだね。いや、米国のポチ国家というべきか。】

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