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録音していた放送大学を聴いていて、気づいたこと(1)

水の販売機の解約も決め、今月の22日に機器を引き取りにくる。いよいよ、約18年間住んでいた、この賃貸マンションを離れるという寂寥感が、じわじわと身体中に浸透していくのが分かる。

そんな中、半ば気休めで、録音していた放送大学を聴きながら、ソファで横たわっているが、ほとんどは、聴いていても、意識が消えているのに、今回は、デカルト、スピノザ、ロック、ヒューム、カントなどの思想を講師佐藤康邦の解説している声が、頭に入ってきた。というわけで、佐藤康邦著『近代哲学の人間像』の印刷教材(放送大学での教科書名)を参考にして、羅列してみる。

デカルト は、 世界 が「 意識」 と「 事物( 身体)」 の ふたつ から 成り立っ て いると考えた。

意識の本質は思考することであり、事物の本質は空間的広がり(延長)をもつこと。

このまったく異なるふたつのものが共存している世界観を心身二元論という。これは今だに解決されていない難問である。

「人間は、意識であると同時に身体という事物でもある。では、精神と事物(身体)はどのように結びついているのか?」という疑問である。

これに対して、スピノザは、世界には神の存在しかなく、精神も物質もそれぞれが神の属性のひとつだと考えた。つまり、精神と物質は独自のあり方をしているのであって、両者の間には平行関係だけが存在することになる、というわけである。

スピノザが考える神は、超越神ではなく、神に、意志や目的を帰属させることは厳しく批判される。だからこれは、神即世界という汎神論に帰結する考え方であり、それゆえ、キリスト教からもユダヤ教からも排斥されて破門となるのである。

この世界が必然性の支配するものとなると、ここには偶然というものがなく、人間の自由意志などもないとなる。

スピノザによれば、身体の活動能力の増大・減少に伴う身体の状態についての観念とされる。それは、欲望、喜び、悲しみの三つからできている。

この感情は受動的であるので、妥当な観念に達することはない、だから、個人と個人との間には隷属と不和が絶えない。だが、人間には理性があり、これに従うと、受動性を能動性に変えることが可能であるとスピノザは考えた。

万物の本質を神の本質のうちに直観する「直観知」について、スピノザは語っている。これは「理性的知」超えた神への愛であるとされ、精神にとっては最高の喜悦という。ところが、実際には、この段階に達するのは稀であり、困難であるとされている。

汎神論によると、人間の精神は神の一部であるということであるから、人間からの神への愛も神自身の愛の一部であるということになる。こうして神は自らを愛する限り人間を愛するという円環が成立することになる。

続きは次回とします。

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