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プラトンの哲学について

荻野弘之共著『西洋哲学の起源』に基づいて、プラトンについて学びます。
これまで、ニーチェ、ヘーゲル、カント、ルソー、アリストテレスと時代を遡ってきましたが、プラトンで最終とします。

ソクラテス以前の哲学者としては、哲学の祖と言われたタレスを始めとして、アナクシマンドロス、ピタゴラス、ヘラクレイトス、パルメニデスなどがあげられますが、著作として残っているのは数少ない。一方、プラトンの著作は、古代にしては珍しく、一つも散逸せずに門弟たちに伝承されている。

プラトンの著作の特徴は、戯曲の作者である以上、決して一人称で自説を語らないところにある。一方ソクラテスは一つとして著作を残していないため、プラトン劇の中で発言する登場人物にすぎない。

ソクラテスの弟子としてプラトンは、実在のソクラテスが語ったことを、忠実に再現したのか、プラトンの思考をソクラテスが語ったものとして劇中で表現しているのかは、確かめようのないことである。

柄谷行人は「ソクラテスは根本的にイオニア的思想家の流れを汲む者であったというべきなのである。にもかかわらず、プラトンはイデア論をソクラテスの考えとして語り、「ソピステス」ではソクラテスの名の下に、イオニア的な唯物論者に対する自らの闘いを語り、イオニア自然哲学との戦いがプラトンの生涯の仕事であったといってよい」とプラトンについて否定的だ。

とはいえ、20世紀に活躍した哲学者ホワイトヘッドは「ヨーロッパ哲学の伝統はプラトン哲学の脚注だ」と褒めちぎっている。

アリストテレスによれば、ソクラテスは自然の全体を顧みず、もっぱら倫理的主題をめぐって〈普遍〉を問い求め、〈定義〉に思考を集中した最初の人であった。プラトンはこれを継承したが、ソクラテスが求めた目標は感覚される事物とは別の存在についてだけ成立するものとして考えて、これらを〈イデア〉と呼んだ。

『西洋哲学の起源』P65

ところが、対話篇の中では、イデアと固定した術語ではなく、「真実在」とか「そのもの自体」などとも呼ばれる。そのためイデアとは、普遍、本質、抽象観念、理想などと、様々な仕方で理解される余地が生じてくるが、その当否はともかく、個々の美しい事物(歌手の美しい声、窓外の美しい景色、美しい花)とは厳密に区別される。

『国家』において論じられるのは、「正義」とは何か、そしてそれを国家においてどのように実現させるか、というものである。

ここでいう「正義」とは、一部の人の幸福だけでなく、すべての人の幸福を実現させることだ。そして「国家」とは、それを実現させられるものでなければならない。
【私見:2500年前のプラトンが、こう主張しているが、人間の意識は、全く進化していない。現在の政権の散々たる実体をみれば、一目瞭然!絶望的!】

そこでプラトンは、現に支配の位置にある者が真に哲学に励むか、あるいは哲学者が王となって国家を統治すべきだと主張する。これが有名な「哲人王」の思想です。

とりわけ哲学者が学ぶべき最大の課目は、善のイデアである。正義ですらこの究極の価値が加わることで初めて有益なものとなる。とはいえ、その正体を明かすのは困難なために、プラトンは「洞窟の比喩」で説明する。

これは、暗い洞窟の奥の壁に篝火によって映し出される影しか見えないように、生まれた時から縛りつけられている囚人に譬えられる。

その洞窟から、囚人の一人が、何らかの拍子で縄を解かれて、後ろを振り返ると、彼はまず、太陽のまぶしさに目がくらんで、何が何だか理解することができないだろう。

それこそが真理のまぶしさであり、その囚人がこれまで見ていたものが、実は影にすぎないことに気づくだろう。そして、再び、洞窟の戻ると、まだ目が慣れず戸惑う新参者のように振舞い、他の囚人からは非常識を指弾される滑稽な道化と映る。

この囚人の譬えが、理不尽な理由で刑死させられたソクラテスの姿を思いださせる。プラトンはこうして、大衆の中に置かれた哲学者の悲劇的運命を描き出すと共に、存在と認識、人間の教育や国家の在り方までを基礎づけようとする一連の壮大な議論を展開する。

しかしながら、本書では、イデア論を認識論や存在論に拡張して一般化するにつれて様々な困難な問題が生じてくることが述べられており、アリストテレスもイデア論批判を展開している、というのである。

イデア論は、普遍と個別、言葉と意味、感覚と思考、知識と信念など様々な哲学的問題が発生する十字路のような観がある。それは単に平板は世界観でも論理のパズルでもなく、言語と思考の限界を示唆する究極の逆説であった。そこは時代を超えて、哲学の様々な問題が湧き出す思想の源泉なのである。

『西洋哲学の起源』P79

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