善と美
哲学者竹田青嗣氏は、カントについて、下記のよぅに評価している。
だが現代哲学では事情が一変したという。
現代の相対主義哲学が審級的価値の問題を主題として取り上げないという事情には、形而上学の否認という動機以上の理由が存在する、というのである。
それは、どういうことだろうか。
現代哲学における「言語学論的転回」は、真偽を問題にしているので、現代論理学を論拠としているゆえに、そもそも善や美を扱っていない。
現代相対主義哲学は政治思想を背景とした批判哲学であり、価値の問題が入り込む余地がなかった。
ハイデガーは現代哲学は存在を忘却していると主張していたが、むしろ善と美の問題を忘却したことを指摘すべきだった、と竹田は述べている。
哲学のあらゆる問題が、善と美の問題に収斂する、とはじめに自覚的に述べたのはプラトンだという。
そのわけは、プラトンは「洞窟の比喩」おいて、「太陽」に、すなわち「善のイデア」に一切のものの認識根拠としてだけではなく、価値の根拠としての地位を与えたからというのである。
ところが、アリストテレスはプラトンが提示した善と美の問題を、哲学的な解明に値する謎として受け取ることを回避した。
この定義により、アリストテレスは、プラトンの提示した善の謎を無視したのである。アリストテレスによれば、何ら謎めいたものではなく、誰もがその意味を知っている自明なものとなってしまった。
カントはプラトンのイデアの理念を、寓喩‐説話的にではなく哲学的認識として解明することにあった。
これもプラトンの真意からは、ずれていた。
カントを含む近代哲学者たちがこのことの意味に深くコミットしたものはいない、と竹田は述べる。
一方、イデア論を認識論や存在論に拡張して一般化するにつれて様々な困難な問題が生じてくることが指摘されている。
以前「プラトンの哲学について」で掲載しましたが、再掲します。
この引用文を踏まえつつだが、私見としては竹田の説を支持している。
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