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善と美

哲学者竹田青嗣氏は、カントについて、下記のよぅに評価している。

カントが認識問題から出発して前と美の問題を探求すべき真の「形而上学」の主題として設定したこと、善と美の問題こそ哲学の根本的かつ本質的主題であることをマニフェストした功績は大きい。

このカントのマニフェスト以来、ポストカント哲学者たちは審級的価値を哲学の根本主題として探求し続けた。

竹田青嗣. 欲望論 第2巻「価値」の原理論 (p.237). 講談社. Kindle 版.

だが現代哲学では事情が一変したという。

現代の相対主義哲学が審級的価値の問題を主題として取り上げないという事情には、形而上学の否認という動機以上の理由が存在する、というのである。

それは、どういうことだろうか。

  • 現代哲学における「言語学論的転回」は、真偽を問題にしているので、現代論理学を論拠としているゆえに、そもそも善や美を扱っていない。

  • 現代相対主義哲学は政治思想を背景とした批判哲学であり、価値の問題が入り込む余地がなかった。

ハイデガーは現代哲学は存在を忘却していると主張していたが、むしろ善と美の問題を忘却したことを指摘すべきだった、と竹田は述べている。

哲学のあらゆる問題が、善と美の問題に収斂する、とはじめに自覚的に述べたのはプラトンだという。

そのわけは、プラトンは「洞窟の比喩」おいて、「太陽」に、すなわち「善のイデア」に一切のものの認識根拠としてだけではなく、価値の根拠としての地位を与えたからというのである。

ところが、アリストテレスはプラトンが提示した善と美の問題を、哲学的な解明に値する謎として受け取ることを回避した。

アリストテレスの「善」の定義は、四原因を記述したのとほぼ同じ方法、つまり、人びとが「よい=善い」と呼んでいるものをすべて集めて一般分類した後、それを綜合的に理念化するという悟性分析的方法によっている。

その答えは、つまるところ、われわれは自分の欲する意図や行ないの対象‐目的を「善いもの」と呼ぶ、ということになる。

竹田青嗣. 欲望論 第2巻「価値」の原理論 (p.239). 講談社. Kindle 版.

この定義により、アリストテレスは、プラトンの提示した善の謎を無視したのである。アリストテレスによれば、何ら謎めいたものではなく、誰もがその意味を知っている自明なものとなってしまった。

カントはプラトンのイデアの理念を、寓喩‐説話的にではなく哲学的認識として解明することにあった。

これもプラトンの真意からは、ずれていた。

プラトンでは、「真知のイデア」ではなく、「善のイデア」が、「イデアのイデア」つまり最高位である。すなわち善が真理を与えるのであってその逆ではない。

竹田青嗣. 欲望論 第2巻「価値」の原理論 (p.241). 講談社. Kindle 版.

カントを含む近代哲学者たちがこのことの意味に深くコミットしたものはいない、と竹田は述べる。

一方、イデア論を認識論や存在論に拡張して一般化するにつれて様々な困難な問題が生じてくることが指摘されている。

以前「プラトンの哲学について」で掲載しましたが、再掲します。

イデア論は、普遍と個別、言葉と意味、感覚と思考、知識と信念など様々な哲学的問題が発生する十字路のような観がある。それは単に平板は世界観でも論理のパズルでもなく、言語と思考の限界を示唆する究極の逆説であった。そこは時代を超えて、哲学の様々な問題が湧き出す思想の源泉なのである。

荻野弘之共著『西洋哲学の起源』P79


この引用文を踏まえつつだが、私見としては竹田の説を支持している。


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